ほんとうの音


「なにこれ」

夕方から夜に変わるころ、仕事用携帯にメッセージが届いた。
送り主は安室透。
本文はなし。
こちらの携帯に安室さんから連絡がくることは滅多にない。
しかも何も書かれていないだなんて。
画面を見ているうちにだんだんと眉間に皺が寄っている自覚があった。
安室さんに危険が迫っている?何かに巻き込まれた?
嫌な予感はしないが、こればかりに頼って最悪な事態に陥っては意味がない。
とりあえず情報が欲しい。
今日の安室さんに何か変わったことがなかったか、もう一つの携帯を取り出して電話を掛ける。
数回の呼び出し音のあと、もしもしと少年の声が聞こえた。

「もしもし、コナンくん?突然ごめんなさい」

『ううん、大丈夫だよ。どうしたの?』

「知っていたら教えて欲しいのですが、今日はポアロに安室さん来てました?」

『え、うん、いつも通り仕事してたし、急に帰ったりもしてなかったと思うよ』

何も聞かずともわたしの意図を察してくれた。
会話が少なくて助かる。
どうやら今日はどちらの組織からも呼び出しはなかったようだ。
しかし、それならどうしてあのようなメッセージを送ったのだろうか。

「そうですか……ありがとうございます」

『なにかあった?』

「多分何もないと思います」

事件という意味では。
コナンくんの出る幕はこの件ではなさそうだった。

『ならいいけど……困ったことがあったら言ってね、僕でよければ協力するよ』

「ふふ、コナンくんがそう言ってくれると力強いですね」

ありがとう、もう一度お礼を言って通話を終える。
いつも通り安室透の活動を何事もなく終えたとすると、彼の今いる可能性の高い場所は……。
何事もなければそれでいい、帰路につく人々の群れに向かってわたしは速足で歩き出した。




目的地には目的の人物の気配がする。
わたしの勘は正しかった。
ふぅと安堵が漏れる。
少し走ったせいか、脈が速くなってしまったので呼吸を整える。
落ち着けば文句の一つでも言いたくなり、仕事用の携帯を取り出して通話ボタンを押した。
数度のコール音の後、安室透というもう一つの顔を持つ人間、降谷零の声がわたしの耳に届く。

『唯か、何かあったか?』

いつも通りのトーン、いつも通りの返し。
それでも何か違和感が沸き上がる。
どうしたのだろう。
理由がわからないため本題に移る。

「それはわたしの台詞です、夕方のメッセージはなんですか?」

『何の話だ?』

「安室さんからわたし宛に本文の無いメッセージを送ったでしょう」

『……いや、覚えがないな』

言いながら安室透の携帯をいじっているらしい。
送信履歴でも見ているのだろうか。
一呼吸おいて、あ、と小さな声が聞こえ、降谷さんは申し訳なさそうに続けた。

『送っていたらしいな……間違いだ』

「そうだと思いました、緊急かと思って焦りましたよ」

『悪い』

「いえ、何もないならよかったです」

これは本音だ。
わたしのいないところで何かあったら、守るものも守れない。
確認も取れたので終話して帰宅しようかと思ったところ、遠くでサイレンが聞こえた。
まずいと思ったと同時に背部にある扉が勢いよく開くが、チェーンがかかっていたせいで途中でガンっといって扉が止まる。
その隙間から褐色がかった肌をした色素の薄い髪の男がこちらを見下ろしていた。
一瞬だったが目が合い、何か言う前に扉が閉められた。
チェーンを外すためとはいえ無言で閉められるのはちょっとつらい。
今度は静かに扉は開かれたが、最低限の隙間から伸びてきた男の腕がわたしを掴み部屋の中へ引きずり込まれた。

「あの、もう少し優しくしてもらってもいいでしょうか」

「何でここにいるんだ?」

やはりサイレンの音でどこで通話をしていたのかバレてしまい降谷さんに捕まってしまった。
切断する判断が一瞬遅れたせいでこのざまだ、上司だからといって油断してはならない。
ちらりと盗み見た彼の顔は険しくはなく少しほっとした。
怒っているというより素直な疑問らしい。
小首を傾げるさまも絵になるのは顔のせいだ。
シャワーでも浴びていたのか降谷さんの髪からは雫が滴り、肩に掛けているタオルに吸い込まれて――。
どうしよう……真っすぐ見ることができない。

「先程言いましたが緊急かと思ったもので……でもポアロは普通に出勤して帰宅したと聞きました、なので何もないことを確認しようと思いまして」

「それでか」

「安室さんからの連絡でしたから、潜入先でのことかと……早く休める日だったのに邪魔をしてしまってすみませんでした。わたし、もう帰りますね」

目線を合わせず早口で言い切った。
送信ミスならここに来た意味はもうない。
わたしたちにとって貴重な休息の時間を減らしたくなかった。
早々にお暇しよう、彼に背を向けて玄関のノブを握りしめたが、扉を開ける事はできない。
わたしの手が降谷さんの左手で押さえられたせいだ。
右手は玄関に添えられ石鹸がふんわりと香り、すぐ真後ろに気配を感じる。
わたしの耳元に口を寄せて、待てとつぶやいた。

「……邪魔じゃない、少し上がっていけ」

「近いです、離れてください」

「こうでもしないと唯は振り切って帰るだろう?」

「そうかもしれませんけど、でも近いです」

彼はふっと笑いながら、わたしの返事を聞かずに背を向けて部屋の奥へ行ってしまった。
もう上がらざるを得なくなってしまい、大人しく靴を脱ぎその後に続いた。

「……失礼します」




ここは降谷さんの自宅ではなく、安室透の活動拠点。
ワンルームの和室で最低限の物しかない。
よく言えばこざっぱりした部屋に、わたしは通されて適当な場所に座る。
降谷さんの部下の自分はここに出入りするのはあまりいいことではないと思うのだが、尾行も盗聴もされていないので問題ないと判断したのだろうか。
それよりも目下の問題をどうにかしなければ。

「あの、降谷さん」

「緑茶でいいか」

「はい、いえそうではなくて……目のやり場に困るので何か羽織ってもらえませんか」

「俺の上半身くらい何回も見てるだろう、今更何を恥ずかしがってるんだ」

降谷さんは自室という空間のためかスウェットのズボンしか履いておらず、首のタオルが申し訳程度に肌色の部分を減らしていた。
しかもその格好のまま、異性の部下をもてなす気である。
気まずいったらない。

「確かに手当とか着替えとか色々ありましたけど、好んで上司のを見たいなんて人いないですから」

「ほぉー、上司じゃなければいいんですか?」

急ににっこりしながらわたしの元へ戻ってくる。
上司がだめなら喫茶店の看板店員なら、とかそういう問題じゃない。
降谷さんの恰好で安室さんを演じるのはギャップがあり過ぎて混乱するが、簡単に引くわけにはいかない。
わたしの心の安寧のために。

「ポアロの女子高生ならその笑顔に騙されるかもしれませんが、わたしには効きませんよ……って、だから近いですって!パーソナルスペースってものがないんですか!」

わたしが喋っている間にもにこにこしながら近づいてくる。
目の前にしゃがみ、わたしの両脇に手をついてぐっと顔を寄せてきた。

「僕は唯さんならこのくらいでも全く気になりません、あなたとの間に距離なんて必要ないですから」

「必要あります、わたしはただの客ですよ」

「唯さんは特別な人です、寂しいことを言わないでください」

「こんな小娘相手に本気になってどうするんですか、からかって遊ぶならもっとノリのいい子を相手にしたらいいと思いますよ」

「からかうだなんて、そんなつもりは毛頭ありません」

そう言って安室さんは上目遣いでわたしの手首に口づけを落とす。
手を出すのはずるい、まるでハニートラップを仕掛けられているようだ。
安室さんと戦っても労力を使うだけでなんの成果も得られやしない。

「……いいです……もうそのままでいいです」

「最初からそう素直でいればいいんですよ」

掴んでいたわたしの手を放して安室さんは勝ち誇った顔をする。
今のやり取りで今日初めて正面から降谷さんの顔を見たが、違和感の正体がわかった。
笑ってはいるが目が虚ろで、その青が濁っているようにみえた。
寝ていないのかと思ったがそれだけじゃないような気がする。
体調が優れないならそのままにしていたら悪化してしまうかもしれない。
そう思って彼の名を呼んだ。

「ふる、安室さん?ちょっといいですか」

「なんですか?」

「ちゃんと拭かないとそのうち本当に風邪で倒れますよ、……服も着てないのに」

彼の横からその肩に掛けられていたタオルを手に取り、代わりに自分が着ていた大きめの黒のカーティガンを羽織らせた。
少々乱暴に拭くと、柔らかい髪は簡単に水分をタオルへ移していく。
降谷さんは抵抗せずに俯いたまま座っていた。

「はいできました」

「……唯」

「なんですか?」

「タオル越しじゃなくて……、」

じゃなくて、なんだろう?
言葉を待つが、先が続かない。
呆けたわたしに業を煮やしたのか、顔を上げずにわたしの手を掴み自分の頭に持っていく。
意外な要望すぎて全然思いつかなかった。
身体的というよりも心の問題、何か嫌なことがあったのか。
ゆるゆると自分よりも高い位置にある頭を撫でた。
見た目通り柔らかく手触りがいい。
それを堪能しながら今日の降谷さんはかわいいなと感じていると、突然撫でていた腕を降谷さんに捕まれた。
相変わらず俯いて顔がよく見えないが、自分の思考が漏れてしまったせいかと冷や汗が出る。

「あの、ご、ごめんなさい?……降谷さん?」

少しのぞき込めば、長めの前髪の隙間から薄い青の瞳がこちらを睨んでいた。
野生動物が獲物を捕食するときのような鋭い視線。
ぎりぎりと腕に力を籠められ骨が悲鳴を上げる。
たまらず顔を歪ませて静止を呼び掛けた。

「やめてください!痛いですっ」

「――っ!?」

ばっとわたしの腕を離し、後ずさる。
自分でも驚いているようだ。
急にどうしたのだろう、心まで読めるわけではないので手荒な事をした理由まではわからない。
わたしの腕にはくっきりと降谷さんの手形が赤く残っていた。
この人は何回この痕をつける気なのだろうか。

「……すまない」

「馬鹿力すぎです、折れるかと思いました……。本当にどうしたんですか?」

「なんでもない、大丈夫だ」

そう言って立ち上がりキッチンへ姿を消した。
食器の擦れる音が聞こえてきて、数分後お茶を淹れて戻ってくる。
机にそれを置いて離れた位置に座るのでわたしから降谷さんに近づくことにした。

「痕なんて、そのうち消えますから気にしないでください。お茶いただいたら帰りますね」

ありがとうございます、と告げて飲み始める。
降谷さんはあれから何も言わない。
熱めに淹れられたお茶はなかなか冷めずに少しずつしか飲めなかった。
自分の息で冷ましているとやっと彼が口を開いた。

「唯は、夢を見るか?」

「夢ですか?人並に見ると思いますけど」

「昔のことを夢に見たりは?」

わたしはお茶を机に置き、隣に座っている横顔をじっと見つめた。
降谷さんはこちらを見ることはなく、彼の分の手を付けていないお茶から視線が逸れなかった。
様子がおかしかった理由は昔の夢を見たかららしい。
誰の夢をみたのか、思いついた人物がたったひとりだけ、いた。
心臓がぎゅっとなったので目を伏せて、降谷さんと同じように正面に向き直った。

「……ありますよ。楽しかったときの夢を見たらどうして今はこうなってしまったんだろうって、苦しくなったり……でも最近そう思う事が減った気がします」

「なぜだ?」

「家族以外で、同じ感覚を共有できる人がいるからだと思います」

「……恋人でもできたのか」

「そんなんじゃないですよ、本当はわたしが勝手にそう思ってるだけですし。でも、理解してくれる人がいるだけで安心しませんか?」

「そういうものか……」

床が軋む音がした。
横から褐色のたくましい腕が回される。
肩口に頭が置かれ次に足がわたしを囲み、完全に降谷さんに閉じ込められてしまった。

「もう痛くしないでくださいね」

「ああ、善処する」

泣いているのだろうか。
わたしの肩を掴み何かに耐えているようだった。
この体制だとわたしから抱きしめ返すことはできない。
その腕に手を添えて、もう一度彼の髪に手を触れる。
ぴくっと反応したが今度は睨まれることはなさそうだ。
首を傾けてお互いの頭を触れさせると、あの日の夜を思い出して無性に泣きたくなった。

「前に……わたしに言ってくれたこと、覚えていますか?」

呼びかけに返事はない。

「降谷さんだって……寂しい時は、泣いていいんですよ」

触れた彼の腕に力を込める。
我慢しなくていいと言ったのは降谷さんなのだと思い出して欲しかった。
泣いているのかはわからない、彼は何も言わないし、ぴくりとも動かない。
ただ、縋るようにその身をわたしに委ねていた。
伝わる重さと体温に、思いあがってはいけないと自分に言い聞かせる。
信用されている歓びと、欺いている罪悪感で押しつぶされそうだった。




お茶が冷えて室内灯が必要になってきた頃、背中の温もりは完全にわたしに寄り掛かっていた。
どうやら寝てしまったらしい。
上はわたしのカーティガンを羽織ってはいたが、このままいて風邪をひいてしまってはいけない。
そんなにやわじゃないと思うが可能性は低い方がいいに決まっている。
今の体制を利用して背負って布団までいけないだろうか。
……無理だ、重過ぎる。
一見細身なのに、殺人パンチを繰り出したり、あの秀とやり合うのだから見かけではわからない。
しょうがないので一旦起きてもらうしかない、寝ぼけてても動いてくれればいいので声を掛ける。

「降谷さん、布団!風邪ひいちゃうので、そこまで行きますよ」

「……」

「降谷さん!」

反応がない、困った。
このままではわたしも帰ることができない。
というかこの体制で一夜を明かすなんて無理だ、降谷さんに押しつぶされる。

「降谷さん、ちょっとでいいから起きてください」

一回寝たら起きない人間なのか?
ゼロなのにそれでいいのかと疑問に思う。

「降谷零!……っ零さん!!」

「ん……」

名前だけで呼ぶと少し反応があった。
少し恥ずかしいが、この手でいくしかない。

「零さん、布団に行きましょう、そこで寝てください」

うっすらと目を開けて預けられていた体重も少し軽くなった。
腕を支えて立ち上がらせる。
二歩ほど後退すれば目的地だ。
最悪押し倒せばしてしまえばいい。

「ほら、降谷さん、さがっ――て」

回されていた腕は緩むことなく、降谷さんはそのまま布団に倒れた。
ぼふっと布団が沈む。
気づいたらわたしは天井を見上げていた。
いや、待て待て、わたしはここで寝るつもりはない。
起きようとするが、緩んでいた彼の腕に再び力が籠められる。

「ふ、降谷さん?」

既に目は閉じられていた。
お互いの顔も身体も近すぎる、この家に入ってからずっとこうだ。
緩んだときに体の位置が変わって向き合ってしまったらしい。
抱き枕のように足を足で絡まれ、降谷さんの胸にすっぽり埋められる。
わたしの頭上から彼の規則正しい寝息が聞こえた。
どうしてこの人はぐっすり寝ているんだろう。
こっちは呼吸すら覚束ないと言うのに。
心臓が動きすぎて、起きる頃には過労で止まってしまいそうだ。

「降谷さん、離してください」

反応はない。
あまり呼びたくはないが、先ほどと同じ手を使うしかない。

「れ、零さん」

「……んん」

降谷さんが身じろぎをする。
少し腕の力が緩んだ気がした。
これで解放してくれればいいのだが。

「あの、零さん、わたし帰るので離してもらえませんか?」

再び降谷さんがぎゅっと抱きしめてきた。
その唇がわたしの額に当たり、寝息が前髪を揺らしてくすぐったい。
まるで帰さないとでも言いたげだった。
どうやら言い方を間違えたらしい。

「――っもう!」

本当は起きているのではないかと疑ったが諦めることにした。
もう外は暗くなり、部屋に月明かりが差し込む。
部屋の電気を付けていなかったので、その光だけが薄手のカーテンを通してわたしたちを照らしていた。
眠れるかわからないが、このままわたしも目を閉じるしか選択肢はなさそうだ。
運よく手の届く範囲にあったタオルケットを繰り寄せてなんとか上に掛けると、石鹸と柑橘系の爽やかな香りがした。
直接肌に触れているせいか降谷さんの鼓動がわたしの鼓膜にはっきりと届き、それに合わせて二、三回深呼吸をして瞼を閉じる。
朝起きたらわたしのブラウスもスカートも皺になっているだろう。
お詫びとして新しい仕事用の服を買ってもらう算段を立てながら、その胸に顔を寄せた。
(2018/6/27)

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