ゼロの黎明


『お前の駒を増やした。今日顔を見せに行くと言っていた。上手く使え』

理事官からの連絡はそれだけだった。あまりに唐突過ぎて降谷零は困惑していた。どういう理由で、どんな人間なのか、情報もなければ書類もない。駒というからには直属の部下ということか。風見裕也と同じ立場になるのか?それすらも不明だ。とにかく会ってみなければならないが、一体どこに配属されたのか。このあと潜入先へ戻らなけらばならないが、時間を作って本庁へも行かなければ。そう思い玄関を出ようとしたところ、呼び鈴が鳴った。降谷の身に緊張が走る、このアパートに連絡なく尋ね人がくるなど今のところ存在するはずがない。ここは現在潜入捜査を行っている身として、これから活動するための拠点だからだ。……同じアパートに住む住人だろうか。念のため、背中のベルトに拳銃をひっかけ、インターホンで応答する。

「はい、どちらさまでしょうか」

『久しぶり、近くに引っ越してきたって聞いたから顔を見にきたの。連絡したけど、届いてなかった?』

女、それも初めて聞く声だった。すらすらと告げられたのは建前で、連絡というのは理事官からのものだと降谷は気づく。新しい駒というのは今この玄関前にいる人間らしい。確証はないが、とりあえず家にあげるしかないと降谷は判断した。久しぶりと言われてこのまま帰すのは誰かに見られていたとすれば不自然に思われる、それを見越しての発言だったのだろうか。

「わざわざ来てくださってありがとうございます、今開けますから待っていてください」

玄関スコープを覗き相手の顔を確認する。向こうからは見えないはずなのに、真っすぐに降谷を見つめていた。明るい茶髪で身長の小さい年端もいかない少女だった。ややつり気味なその瞳に懐かしさを感じるのは何故か。どう考えても会ったことなどない。降谷が疑問に思っていると、スコープ越しに、彼女は両手を顔の近くで振り始める。どうやら中々玄関が開かないのは、自分が武器を持っているかもしれないことを危惧していると考えたらしい。
少し気が抜けてしまった。早々に何者なのか確認しよう。降谷は玄関の鍵を開け彼女を招き入れた。

「突然ごめんね、お邪魔します」

「何もおもてなしできないですけど、どうぞ」

二人ともにこやかで傍から見れば初対面には見えない。当たり前のように彼女は部屋に侵入し、鍵を閉める。降谷は彼女を盗み見るが、小さなショルダーバッグ一つに服装は薄手のワンピースでその下に何かを隠してはいなさそうだ。このくらいの体系の少女なら武器がなくても制圧できる。そう思い、降谷は背中の拳銃から手を放した。

「少しは信用していただけましたか?」

その動作は彼女に見通されていた。観察力は高いらしい。

「やはり君が新しい駒、というわけだな」

「はじめまして」

それだけ言うと、彼女はじっと降谷の目を見つめた。微動だにせず、言葉の先が続かないことを降谷は不審に思う。その言葉の次は普通、自分の名前を名乗るものだろうに。
彼女はもう一度同じ言葉を繰り返した。

「はじめまして」

「……二回言わなくてもいい、確かに初対面だ」

ただ真っすぐに降谷の目を見つめていた彼女は、その返答にひとつ頷いた。その顔が少し寂しそうに見えたのは気のせいだろうか。

「翠川唯と申します。ご連絡がありましたとおり、本日付で公安に配属されました。どうぞあなたの駒としてお使いください」

そう名乗った少女は深くお辞儀をした。その口から駒と発せられるのには違和感しかない。それくらい見た目は若く、潜入捜査等を行う公安には似つかわしくなかった。ただその瞳だけは揺るがない決意を秘めてた。

「駒、か……僕の指示に忠実に従うということか」

「そうですね、善処します」

「……は?」

「駒にはなりますが、人形になるつもりはありません」

「なるほどな……」

部下として使うには癖のありそうなのを寄こしてきたなと、降谷は頭を抱えたくなった。前から風見と対になるような、現場で使える人間が欲しいとは言っていたが、本当に大丈夫なのだろうか。

「それで、何ができる?」

「射撃が得意ですが、格闘はあまり向いていません」

「まぁ、体格的にそうだろうな。今度、射撃訓練に付き合え」

「承知しました。あとは……特定の誰かにはなれませんが、見た目を変える趣味があるくらいですね」

そういって唯はおもむろに自分の髪を掴み取った。その下から漆黒の長い髪が現れ広がり、輪郭を縁取るように流れ落ちる。彼女を初めて見たときから感じるこの既視感はなんだ。振り切るように降谷は頭を振った。
警察職員として目立つ髪色だと思ったが、こういうことかと降谷は納得する。今日の服装には合わないので失礼します、といって唯は外したウィッグをいそいそと付け直した。

「ここに配属される前はどこにいた?」

ウィッグの髪を手で梳かしていた唯の動きが止まる。

「申し訳ありませんが、お答えできません」

「僕が話せと言っている」

「話せません、わたしの経歴その他については話さなくていいということになっています」

降谷の眉間に皺が寄った。どういうことだ、一公務員の職務経歴を言えないだなんて意味が解らない。こんな人間を使えというのか、上は何を考えているのだ。警察庁に直接確認しなければならないということだろうか、そう降谷が考えたところ、その思考を読んだかのように唯から否定的な言葉が発せられた。

「理事官に聞いても同じ答えが返ってきますよ」

「全て把握した上で僕の部下に、というわけか」

信用ならない人間は駒として使えない。上からの命令だとしても、この配属はできるものなら拒否したい。ただでさえ降谷はノックとして疑われやすい立場にいるのだから、身内にスパイ疑いがいるかもしれないなどとてもじゃないが笑えない。

「……お前は何者だ」

「わたしはあなたの駒です」

「信用のならない駒だな」

「自分でもそう思います。いつでも使い捨ててくださって結構です」

「そうだな、そうしよう」

再度二人の視線が交わっていた。自分から逸らすのは癪で降谷は蔑むように見返す。
吐き捨てるように言ったが、降谷には使わないという選択肢はあっても、犬死させる気は毛頭なかった。どんな部下でも使い方次第だ。それで使えなければ上に直訴して公安から外してもらえばいい。その前に一度出向くつもりではあるが。
両者の睨み合いは唯が堪えられずに笑ってしまったことで幕を下ろした。今のどこにそんな要素があったのか、降谷は全く分からない。先ほどよりも深く眉間に皺が寄っている自覚があった。

「嘘つくの下手ですね」

「……何故そう思う」

「降谷さんの目がそう言っています、信用しきれなくても無意味に捨てられないってところですか」

降谷は思考を読まれていたことに驚くが、そんな素振りをした覚えなどない。それほどまでの観察眼がこの少女にはあるというのか。

「どういうことだ?」

「わたし、相手の目を見ると嘘かどうかわかるんです」

「……心が読めるとか言うのか?馬鹿馬鹿しい」

「何を考えてるのかまではわかりません、純粋に嘘をついてるってわかるだけです」

「変わった特技だな」

「特技になりますか?」

小首を傾げて唯は尋ねる。本当に目を見るだけで真偽がわかるなら、情報収集に役立つだろう。この能力があっての公安配属か。
しかしこの見た目通りの年齢ならば経験が足りないはずだ。能力があったとしても誘導し、情報を引き出せなければ意味がない。

「上手く使えればな」

「それじゃあ上手く使ってくださいね、降谷さん」

そう言って唯は無邪気に笑った。どうやら彼女から降谷は信頼を得ているらしい。
わけのわからないことばかりだ。理事官からの辞令、素性の知れない部下、その部下からの謎の信頼。これからまた潜入先に戻らなければならないというのに、こうも頭を悩ませる原因が増えるとは思ってもみなかった。今は組織内で重要なポジションにつけるかどうかのところだと言うのに。降谷としては、悩まされるのはそちらだけにして欲しかった。
はぁ、と降谷の深いため息が聞こえたのか、唯は申し訳なさそうに呟く。

「突然お邪魔して、玄関先で長く居座ってしまって申し訳ありませんでした」

得体の知れない人間である彼女を中まで通す気は降谷にはなかったので、それは全く気にはしていなかった。明後日の方向の謝罪ではある。

「それではそろそろ失礼いたします。これからよろしくお願いします」

来た時と同じように深々とお辞儀をして、それではと唯は玄関から出て行った。
嵐が過ぎ去った後のような疲労感に襲われた降谷は、室内へ戻りベッドへ倒れ込んだ。明日からあの部下を使っていかなければならないのか。降谷に対して敵対心はなかったが素直に指示に従うのか、不安が残る。やはりできるだけ早く、理事官の元へ直接赴く必要がありそうだ。

「……やり合うにしても情報がなければ何もできない」

唯の経歴は明らかにはならないだろうが、少しでも情報が欲しい。あとは本人の口を割らせればいい。降谷はその手段を考えながら、ゆっくりと起き上がると組織へと戻るための準備をし始めた。
(2018/8/10)

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