ひと雫想い


その日は、サミット会場の見回りの日だった。わたしは降谷さんと危険なものがないか、一通り見て回る。全てを回った後、会場図と見回った結果、危険と思われるものの照らし合わせの最中にそれは起こった。
突然の轟音、爆発だった。反射的に体が動いた。
炎による高音の風が一瞬でわたしと降谷さんとの距離を詰めてくる。自分よりも大きな体の盾になるように、爆発地との間に入った。降谷さんはわたしの名を叫んでいるようだったが、立て続けに起こる爆音のせいで何も聞こえない。
彼の体を下に引っ張って屈ませ、そのまま押し倒した。上に被さると、自分の背中に尋常じゃない温度と瓦礫が襲ってきた。
それからの記憶はない。
ただ、この人を死なせてはならない、この人を守るのは、わたしだ。それだけを考えていたことだけは覚えている。




エッジ・オブ・オーシャンの事件は解決した。コナンくんの協力を得て犯人は捕らえられ、”はくちょう”のカプセルも無事海上へ落下させた。真相から公安の関わりは消され、俺はポアロでアルバイトをする日常へと戻った。
それなのに、俺の中でこの事件はまだ終わっていなかった。

「安室さん、こんにちはー!」

「ああ、いらっしゃい、今日も元気だね」

コナンくんと友達がやってきた。彼らも今回の事件の解決の協力者だ。自分のケーキを気に入ってくれていたので、サービスという名の報酬として出してもいいかもしれない。
コナンくんはカウンター、他の三人はテーブル席に決めたらしい。それぞれ飲み物のオーダーをしていく。無垢な元気さを眩しく思いながら、オーダーに応えるために一度カウンターへと戻ることにした。

飲み物と報酬のケーキも出し、ごゆっくりと告げた。立ち去ろうとしたとき、片時も頭から離れない存在の話題を振られた。

「最近リナさんとポアロで会えませんね」

「そうだなー、しばらくみてねぇーなー」

「安室さん、リナお姉ちゃん最近ポアロに来た?」

俺とコナンくんの動きが一瞬止まる。子供の鋭さは侮れない。
倉戸リナとは、俺の部下である翠川唯の毛利探偵事務所近辺での潜入時の偽名だった。
コナンくんは俺がどう躱すのかと、こっちをじっと見ていた。知らないと白を切るのは簡単だが、そういう気分になれなかった。唯のことを切り離したくなかったから。

「リナさんは体調が悪いみたいで、入院してるんですよ」

あまり深刻にならないように、笑顔で答えた。半分本当のことを伝えた俺の対応に、コナンくんは驚いていたように見えた。

「えー!入院してんのかよ!」

「大丈夫なんですか!?」

「心配だから、お見舞いに行こうよ!」

彼女のことを心配してくれる人がいるのが、純粋に嬉しかった。偽りの名と姿でも、倉戸リナでいるときの唯は普通の女の子の様だったから。
しかし、見舞いは不可能だ。普通の病院に入院しているわけではないし。関係者以外、面会謝絶になっている。

「お見舞いは無理みたいなんだ、彼女、ずっと寝たままで起きないらしいんだ」

「えっ、そんなに悪いの?」

今度はコナンくんが反応した番だった。彼は唯が爆破時に俺を庇って、意識不明の重体になったことを知っている。怪我のせいで、それが未だにが続いていると思ったのだろう。
あの時の怪我は大分良くなってきている。もう命に別状はなかった。

「いや、ただ起きないだけだって。どうすれば起きるのか医者も困っているって彼女のお兄さんから聞いたよ」

コナンくんはほっとした顔をしていた。そう、本当に起きないだけ。

「それで、安室さん元気ないんだね」

歩美ちゃんの一言ではっとした。

「僕、元気ないように見えたかい?」

「見えましたね」

今度は光彦くんが答える。隣では元太くんもうんうんと大きく首を縦に振っていた。
まいったな、こんな子供たちに心配されてしまうなど、トリプルフェイス失格だ。

「まぁ、親友の妹が昏睡状態だなんて、心配にもなるよ」

色々含みのありそうな、コナンくんのフォローが痛い。

「ねぇねぇ、リナお姉ちゃん、どうしたら起きるかな」

「これはもう、あれしかないですよ!」

どうやら何かアイデアがあるらしい。心配してくれてるついでに聞いておこう、何か思いつくかもしれない。

「あれってなんだー?」

「ふっふっふ、ずばり、王子様のキス!です!!」

……子供に期待したのが馬鹿だった。
コナンくんはコーヒーで咽ている音が聞こえた。

「眠り姫には王子様のキスが必要だよね!」

「そうです!それでリナさんは起きるはずです!」

本当にそんなもので起きてくれれば苦労しないのだが。ははは、と乾いた笑いでそのやり取りを眺めていた。
それじゃあよ、と元太くんがこっちを向いた。

「安室のにいちゃんがリナねえちゃんの王子様だな」

「え?」

作った笑顔が凍る。
俺が?彼女をあんな風にした俺が?
本当は何よりも唯が大切だと、そう口に出すことなど出来ない俺が、彼女の王子であるわけがない。存在自体が嘘ばかりの俺が。

「……僕は、彼女の王子様になんかなれないよ」

そんな資格などありはしないのだ。
僕の否定的な返事に、子供たちはきょとんとしていた。子供たちの純粋な瞳から逃れるように目を逸らす。

「そんなことないよ、安室さんはリナお姉ちゃんの王子様にぴったりだよ」

はっとした。声の主は歩美ちゃんだった。少女は当たり前のことを言っている顔をしていた。

「なんで……そう思うのかな」

「だって、リナお姉ちゃん、安室さんといるときすっごく楽しそうにしてるもん」

楽しそう?唯が?
あれは、倉戸リナとしての、一緒にいる人に紛れるための自然な演技だ。だから、安室透と楽しそうにしている、というのも演技のはずだ。それなのに、年端も行かない少女から言われたことなのに、こんなにも嬉しいと感じてしまっているのは。
否定も肯定も、どんな言葉も出てこない。
だんまりしている俺が心配になったのか、コナンくんが椅子から降りて寄ってきた。その後ろに小ぶりのボトルを持った梓さんもいた。

「……安室さん、大丈夫?」

「子供って意外に敏感なものよね」

ふふっと笑って、ボトルを俺に差し出す。

「今日ね、リナさんの好きなコーヒー豆が入ったの。寝ていても五感はあるらしいってコナンくんから聞いたから、もしよかったらこれ病室に持って行って」

ちらりとコナンくんをみると、さっさと会いに行ってこいと顔に書いてあった。

「安室さんも、そろそろ素直になったほうがいいよ」

この少年は……先日の事件のときの彼女って唯さんじゃないの?という質問といい、どうしてこう突っ込んでくるんだ。素直に、だなんて簡単に言ってくれる。

「愛の力は偉大なんでしょ?」

あの時の仕返しと言わんばかりにコナンくんはニヤリと笑った。観念するしかなかった。唯に会いたい気持ちは嘘ではなかったから。

「……梓さん、お言葉に甘えて今日は上がらせてもらいますね。コーヒー、ありがとうございます」

ポアロのエプロンを外して、差し出されたボトルを受け取る。子供たちはなんだかうきうきした歓声を上げている。
いってらっしゃい、という梓さんの隣で、楽し気に手を振るコナンくんを後目に、急いで自分の車に向かった。




唯が寝ているサイドテーブルに、梓さんが持たせてくれたボトルの蓋を開けて置いた。コーヒーの甘い香りが病室に広がる。
備え付けられている椅子に腰を落ち着けて、一息ついた。
事件当日から比べると大分包帯も取れて、顔色も良くなった。それなのに、外されることのない酸素マスクと点滴。心電図の規則正しい音だけ静かに彼女の生を刻んでいる。
これが、嫌でも俺に彼女の現状を知らしめた。医者からも山は越えたといわれたにも関わらず、その瞳が開かれる気配はない。後は唯自身が起きてくれるのを待つだけしかないと、淡々と告げられた。
いつ起きるともわからないというのは先を思うだけでつらかった。その間、彼女の声も笑顔も、見ることは叶わないのだから。

「……唯」

小さく彼女の名前を呼び、その手に触れる。そっと自分の頬に持って行った。その手は温かく、確かに生きていることを自分の肌で感じることができた。
所詮おとぎ話だ、子供の言うことを信じているわけではない。本当に、藁にも縋る思いだった。ねむり姫が王子様のキスで目が覚めるのなら。王子なんて柄ではないが、誰よりも彼女を想っていると自負している。俺以外で唯を目覚めさせられる人間なんて、この世には存在しないと。
互いの指を絡ませ、唯の顏の横に置き、そっと酸素マスクを外した。その頬と、少しカサついた唇を指でなぞった。

「唯、もういい加減起きろ」

反応はない。

「お前が起きないと、あの事件が終わらないんだ」

もう大切な誰かを失うのは嫌だ。
景光、彼女がそっちへ行っていたら追い返してくれ。大事な妹だろう。
俺にとっても大事な人なんだ。

「……唯、愛してる。だから……」

そっと、自分と彼女の唇を重ねた。




「兄妹で警察官で、事件解決しまくりって凄いね」

「有名だもんね、翠川兄妹」

「迷宮入りの事件なんて二人の前では絶対にないんだって」

それが警察内でのわたしと兄の評判。
兄と一緒に仕事をするという夢が叶った。やはり兄妹、相性がいいらしく、ここ数ヶ月の間に起こった事件は瞬く間に解決していく。とても楽しい。

「ずっと、俺たち二人でいような、唯」

「うん、お兄ちゃん!」

夢のような幸せ。絶対叶う事がないと思ってたから。
だって、兄は・・・。
兄は、どうしてたんだっけ。

「どうした、唯?」

いつもそばにいてくれてるじゃないか。
こうして笑っていてくれる。

「ううん、なんでもない」

「最近、ぼーっとすること多いからな、気を付けろよ」

「はーい、捜査に支障が出ないように気を付けます」

「よろしい」

二人で顔を見合わせて笑った。ああ、甘い、ふわふわした感覚だ。
緊張感がどこにもない。
あのピリッとした、鋭い眼差しも。
棘のある、厳しい声も。
前を歩いてくれる、あの背中も。
徹夜が続いたときにくれる、労いの大きな手も。
……あれ、これは誰のことだ。

「事件だ、いくぞ」

兄は前を歩いていく。頼りになる、大きな背中だ。
でも、違う。
わたしが焦がれるのは、この背中じゃない。
いつまでも追いかけて来ないわたしを、兄が心配そうに振り返る。

「置いていくぞ、唯」

いやだ、置いていかないで。もうひとりにしないで、お兄ちゃん。
そう思っても足が動かない。
だって、わたしの後ろから呼ぶ声が聞こえるから。憧れて、焦がれてやまない、わたしが守ると決めた人の声が。

「……唯?」

そうだ、叶うはずないのだ。兄とはもう二度と会えないのだから。共に仕事をするのが夢だった、これは自分が望んだ夢。本当の兄じゃないから、だからわたしを唯と呼ぶのか。
それでも、自分が作り出した夢でも、兄と共にいられたことは幸せだった。堪えきれなくなった涙がぼたぼたと零れ落ちた。

「……わたし帰らなきゃ、降谷さんが呼んでる」

「唯……ここにいれば、俺とずっと一緒にいられるよ」

一緒に居たくないわけがない。でもここは自分が都合のいいように作り出した、夢だ。いつかは必ず醒める。
それに―――。

「ここには降谷さんはいないから」

わたしの夢なのに、ここにいる限りきっと降谷さんには会えない。
涙は相変わらず流れ続けているが、精一杯の笑顔を兄に送った。わたしが決心を固めたからか、夢の中の兄は掻き消えた。周りの霧がかった景色もはれ、光が差してくる。

「お兄ちゃんの親友はわたしが守るよ。わたしの大切な人だから」

「……ああ」

声に驚いて振り返ると、優しく微笑む兄が見えたような気がした。




瞼をあげるだけなのに、すごく重たい。
眩しい。
何日ぶりの太陽の光なんだろう。光が強すぎて、目を開けたはずなのに何も見えない。
ふと、誰かが息を飲むの音が聞こえる。ぼんやりとしていた視界が徐々にはっきりしていく。目の前で、懐かしい青い瞳が、大きく見開かれて揺れていた。

「…………るや……さ……」

「……ははっ……まさか、本当に」

震えた声で降谷さんが笑っている。
珍しい。
こんなくしゃくしゃの顔で笑うなんて、初めてみた。思考が上手く働かないせいか、かわいい顔だな、なんて考えてしまった。
降谷さんの額が、わたしの額と合わさった。金と黒の髪が交わる。

「おはよう、唯」

降谷さんに名前を呼ばれて、急激に思考が現実に引き戻された。
ああやっぱり同じだ、夢の中で呼んでくれたのは彼だ。また会えた、声が聞けた。嬉しくて涙が零れた。

「……おはよう、ございます……ふるやさん……っ」

目覚める前から繋いでいたらしいわたしの手を、降谷さんがぎゅっと強く握った。それに応えるように、わたしもゆるゆると力を込める。

「……やっとあの事件が終われるよ」

ひとつだけ、青からわたしの頬へ、温かい雫が落ちた気がした。
(2018/5/23)

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