ブルーフローライト


現在地は降谷さん宅近隣の広場。
ストーカーみたいだと兄に言われているかもしれない。
運悪く、今日は仕事が片付いて日付が変わる前に退勤させられてしまった。
ひとりでいたくないな、と考えて気がついたらここだ。
もうどこかへ動くのも億劫で、今日が昨日になるまで、ここで空を眺めることにした。
雲がないのに星も見えないので、兄からわたしは見えているのかなと考えていた。




会いたいと思ったときに限って会いたい人には会えないものだ。
いつも忙しくしているわたしの上司、降谷さんは職場には来なかった。
来るほうが珍しいのだけど。
ため息がでる。
彼の自宅を訪ねたって十中八九不在だろう。
本当にこんな場所で何をしているのだろうか。
終電も近づいてきた。
明日も仕事だ、帰れなくなっては困る。
こんなストーカーみたいなこと降谷さんにバレたら良くて白い目で見られるか、最悪今の自分の立場が危ないかもしれない。
この時間から帰宅すれば自宅に着くのは日付を跨いだ頃だ。
当初の目的は果たせそうなのでもう帰ろう、重い腰を上げた。

「……降谷さんに会いたかったなあ」

口が裂けても本人の前では言えないけど。
またため息がでた。
今日は本当にダメだ。
こんな不安定な気持ちでいては仕事なんて務まらない。
もう何度目かのため息がでた。
と、携帯が震えいずれかの連絡が来たことを知らせた。
こんな時間に仕事の連絡かと思い携帯を取り出し画面を確認する。
その間もバイブレーションが続いていたので、どうやら着信のようだ。
画面に記されていたのは今しがた会いたいと思っていた人。
降谷零を示す番号。
なんで、どうして。
会いたいと思っていたときに、こんなタイミングよく。
盗聴器など仕掛けられていないはずなのに、どこかから見られているようだ。
考えが物騒になるのは職業病だからしょうがない。
例え会えなくても、声だけでも聞ければ今年は最悪な今日を避けられそうだ。
何を言われるか、震える指で応答を選択した。

「……はい、翠川です」

『遅い、なんですぐ出ない』

「はい、申し訳ありません」

謝りつつも顔がにやけてしまう。
傍からみたら危ない人だ。
思った以上に嬉しいと感じてしまっていて自分でも驚きを隠せない。
感情のコントロールが出来ないくらい弱っていたのか。

『何気持ち悪い声出しているんだ』

電話越しでもばれているらしい。
でもなんだろう、何か声に覇気がないような気がする。

「いえ、何でもありません。それで急ぎの仕事ですか?」

小言を言われる前に要件の話に持っていこう。
長く話せたほうがいいに決まっているが、怒った降谷さんは怖いのでできればご遠慮したい。

『そんなことより、お前はこんな時間まで自宅に帰らずにどこほっつき歩いているんだ』

「それは……ちょっと……いや、そんなことよりって、仕事の話じゃないんですか?」

『俺からの電話は仕事しかないのか』

「……仕事以外に掛けてくることありましたっけ」

『……ないな』

空しい問答だった。
ワーカーホリックのこの人にとって、仕事外の用事などありはしない。
それなのに、そんなことってどういうことだ。
降谷さんの要件がわからずに戸惑う。
そういえば降谷さん、さっきなんて言った?

「あの、どうしてわたしが自宅にいないこと知ってるんですか?」

自宅に帰らずにって、わたしの自宅まで行ったってこと?
どこにいるって、わたしのことを探しているってこと?
自惚れかもしれないが聞かずにはいられなかった。
この人は無意味なことはしないし、言わないから。
はあ、とため息が聞こえた。

『お前の中で答えが出てることを、俺に言わせる気か……』

やっぱりわたしに用があって、わたしの家まで来ているんだ。
でも不在だったから電話をかけた。
今思いっきり降谷さんの眉間に皺が寄っているんだろうなと、ありありと想像が出来てしまって笑いをこらえることができなかった。
年上でかっこいい人なのに、あの表情は何故だか可愛く思えてしまう。

『……笑うな』

「だって、わたしたち同じことしてたので……」

口にはしなかったけど嬉しいと感じてしまった。
わたしにとって降谷零というのは、それほどまでに大きい存在なのだと自覚する。

『同じ、か……そっちへ行くから少し待ってろ』

「え」

行くっていうか帰宅になるのか、ここは降谷さんの自宅だし。
いや、わたしに会いに来てくれるということか。

「……はい、待ってます」

降谷さんの満足そうな反応を最後に着信が切れた。
終電はもう間に合わない。
大人しく上司が迎えに来てくれるのを待とう。




今日は運がいいのか悪いのかわからない。
大人しく降谷さんの迎えを待っているのだけど、いかんせん時間が悪かった。

「君、未成年?こんな時間にこんなところで何してるのかな」

見回り中のお巡りさんに目を付けられてしまった。
今日は事務仕事だったから、地味目な格好をしているせいか。
学生服は来ていないけど、お世辞にも大人っぽくはみえない。
警察手帳を出すことは簡単だが、自分の身分を晒すのはできるだけ避けたい。

「待ち合わせをしています。もうそろそろ来ると思いますので大丈夫です」

「待ち合わせってこんな時間に?危ない人じゃないよね、今そういうの多いから」

「違います、……家族です」

この無駄なやり取りがだんだん面倒になってきた。
ああ、降谷さん早く来てください。
法定速度内で、できるだけ早く。
祈りは届いたのかRX-7のエンジン音が聞こえてきた。
やはりあの会話だけお互い居場所を理解できたということか。
近くの歩道に寄せて、降谷さんの車が止まった。

「……お迎えかな?」

お巡りさんが運転席を見る。
本当に家族なのか確認しているのだろう。
わたしは降谷さんの車へ走った。

「お兄ちゃん、遅い!」

「ごめん、お待たせ」

事前に打ち合わせがなくても状況を理解するこの上司は本当に恐ろしい。
先ほどの電話とは違う、穏やかな笑顔でわたしを車に迎えた。

「お兄ちゃんが遅いから、お巡りさんが心配して一緒に待っててくれたの」

自然な動作で車に乗り込むわたしを見て、お巡りさんは不審な点はないと判断したらしい。
随分と似ていない兄妹だったが堂々としていればなんとかなるものだ。

「最近物騒ですからね、あまり夜中に出かけないようにお兄さんからも言ってくださいね」

「わざわざすみません、ありがとうございます」

笑顔は崩さず、ぺこりと二人でお辞儀をして降谷さんは車を発進させた。
今は爽やかなお兄さんだが、二人きりになった後がちょっと怖いなと感じてしまった。




乗り込んだ車内の空気は重苦しい。
さっきの発言のせいだ。
目的地はどこなのか聞いていないので向かう先を考えようと窓の外を眺める。
車が最初の角を曲がると降谷さんが低い声を発した。

「いつから、俺はお前の兄になった」

「今さっきです」

相手が理解していることを説明しないといけないのは本当に気まずいことを身を持って知る。
電話をしたときにわたしが聞き返したことを根に持っているのか。

「お父さんよりマシだと思ったので」

「……流石にそれは無理だろ」

「わかってますよ、零お兄ちゃん」

ちょっと反抗してみたくて降谷さんに微笑んで言ってみたが、ギロリと睨まれたのですぐに視線を逸らした。
でもいつもより怖さがない、電話越しで感じたことを思い出す。
顔もなんだか疲れているように見える気がした。
しかし彼は至っていつも通りに接してくる。

「そもそも唯が未成年に見えるのが問題だ」

「気にしてることなのであんまり言わないでください……」

「しかし、この時間なのに化粧とウィッグをしてないのは珍しいな」

「内勤のまま真っすぐ来てしまったので……元々外に行くつもりはなかったんです」

夜遅い仕事のときは先ほどのようにならないために濃い目の化粧や変装をして怪しまれないようにしている。
いつものあっさりした見た目のままだったから不思議に思っていたのだろう。

「まだ仕事はあったので、帰る気なかったんです。だからそのまま残ろうと思ったら、風見さんが一段落ついたんだから帰れるときは帰ったほうがいいって……」

「それで、なんで俺の家の前に?」

それを聞かれると非常に困る。
降谷さんこそなんでわたしの家に行ったんですか、と聞き返したかったが、先に聞かれてしまったのでわたしが答えるまで逃げることはできないだろう。
どう返答するのがいいか、じっと降谷さんの目を見て考える。
運転をしているのに一瞬だけこちらを見返してきた。

「たぶんですけど……降谷さんと同じ理由だと思います」

お互いがお互いに会いに行っていたのだから。

「……明日は早いのか?」

「え、っと……いいえ、その予定はないです」

「わかった」

ゆるゆると走っていたRX-7が目的地を定めたらしい。
深夜にも関わらず明るい夜道を真っすぐに駆けていった。




車が止まるまでお互いに何も話さなかった。
エンジンが止まり、着いたのは灯りが届かない郊外の公園の駐車場だった。
シートベルトを外して降谷さんが車外へ出ていく。
わたしもそれに倣った。
先ほどまでの重苦しさが外へ出たことで取り払われる。
深呼吸をして新鮮な空気を肺の中へ送ると、真っ暗闇の空に数多の光が浮かんでいた。

「……きれい」

「今日は晴れているから、よく見える」

そう言うと降谷さんは歩きだしたので、わたしもついて行く。
小高い場所にあるこの駐車場の縁に設置されている柵の前で立ち止まる。
眼下に広がるのは米花町の灯りだった。
色とりどりの電飾で飾られた町はフロントガラスから通して見た景色とは違って、穏やかにわたしたちを照らしていた。

「よくこんな場所知っていましたね」

「地図は頭に入っているからな」

「なるほど、女性を落とす手口はこうやって使うんですね」

「馬鹿言うな、誰かと来たのは初めてだ」

がしがしと降谷さんは頭を掻いた。
心配してくれていたのにからかったから呆れているんだろう。
柵によしかかるようにして空を見上げる姿に目を奪われそうになったので意識して逸らし、同じようにわたしも柵に両腕を乗せて空に視線を移した。
本当はこんなに星が出ていたんだな。
ここなら兄からわたしのことが見えそうだった。
少し感傷的な気分になっていたのに、前触れもなく降谷さんが口を開いた。

「唯に会いたいと思ったから、お前の家に行った。用があったから」

「は、え?」

「運転していたときに言っていただろう、家に行ったのは同じ理由だと思うって」

「あ、……はい」

急に話をぶり返され、まさか降谷さんの口から理由をはっきり告げられると思っていなかったので、頭で理解するまで時間がかかった。
次はお前の番だとでも言わんばかりにじっと横目でわたしの顔を見つめられる。

「今日は一人で家に居たくなかったんです、それで……」

気が付いたら降谷さんの家の前だ。

「だから職場に残る気だったのか」

首を縦に振る。
先を促すように降谷さんは黙っていた。
本当は話すべきじゃないとわかっている、わかっているのにもう自分で止めることはできなかった。

「今日はですね、大切な人の命日なんです」

「……!」

「命日って言っても、本当はいつ亡くなったのかわからないんですけど……だから、亡くなったことをわたしが知った日を命日にしたんです」

なんでも知っているはずの上司の目が見開かれていた。
珍しくうろたえているらしい。

「笑っちゃいますよね、そんな日がわたしの誕生日だなんて」

楽しい話じゃないのに笑ってしまう。
人間とはつくづくおかしい生き物だなと感じた。

あの日のことは忘れられない。
数年前のわたしの誕生日。
ほとんど家に帰ってこない兄だったが、プレゼントは欠かさずに送ってくれた。
あの時も宅配便でプレゼントを受け取って、兄のメッセージカードを開けようとしていたところだった。
また直ぐにインターホンが鳴って……スーツを着た男の人たちがいて。
兄が殉職したことをわたしたち家族に伝えた。

「形見になっちゃいました、あの日からずっとつけているんです」

降谷さんの前でネックレスを指でつまむと楕円と小さな星のチャームが宙で揺れた。
わたしのお守り。

「いつか一緒に働きたいって、冗談みたいに言っていたのを覚えていたんだと思います。だから、星のネックレスだなんて……」

星は警察のシンボルとしてよく使われている。
それで選んでくれたのか、兄の真意はわからなくなってしまった。
そしてわたしの夢が叶うこともなくなってしまったのだ、永遠に。

「いつ聞いてもどこでどんなことをしているのか教えてくれませんでした、知らない間に仕事も辞めたなんて言ってたのに……それなの……」

言葉が続かなかった。
笑うことでなんとか自己を保とうとするが、やり方がわからなくなってしまい上手くできない。
唇を噛んで俯いていると、今までずっと黙って隣で話を聞いてくれていた降谷さんが目の前に立っていた。

「もういい」

「……ごめんなさい、話過ぎました」

「違う」

降谷さんの大きな手がわたしの頬をつかんで無理やり上を向かせる。
見上げた彼の表情も歪んでいた。
胸が苦しくなる、感情が溢れないよう先ほどよりも強く唇を噛んで堪えた。

「やめろ、傷になる」

そっと親指で唇を撫でられた。

「……無理して笑うな」

だって、笑っていないと耐えられない。

「寂しい時は泣いていいんだ、唯」

見つめあう瞳が本心からの言葉だと物語っていた。
ずるい、自分は泣かないくせに。
どうしてわたしの欲しい言葉をくれるの?
もう無理だ、張りつめていた精神が解けていく。
それでも泣き顔だけは見られたくなくて、頬に添えられていた降谷さんの手を払いその胸に顔を埋めた。
行き場をなくした彼の両手が彷徨っていたが、しばらくするとわたしの背中を優しく撫でてくれた。
安堵とともに、止めることのできなかった寂しさが静かに零れ落ちていく。

「大切な人なんです。それなのに、温もりも、声も、面影も……一年経つ毎に少しずつ消えていってしまうようで、怖くて……たまらないんです」

「人間は忘れるように出来ている」

「わかっています、それでも……辛いです」

「ああ……」

喉の奥から絞り出すような返事だった。
わたしにとっての兄は、彼にとっては親友だった。
わたしたち兄妹は年が離れていたので、その交友関係に交わることが少なかった。
片手で数えられるほどしか会ったことがなかったけど、兄と一緒にいた降谷さんは本当に無邪気に笑っていたのを覚えている。
兄が亡くなった後、数年ぶりに会った彼にあの頃の面影はなかった。
少年から成長したのだから当たり前な部分もあるが、纏う雰囲気が鋭く近寄りがたいものに変わっていた。
わたし自身も成長したおかげで親友の妹であることに彼は気づかなかった、実際のところはわからないけれど。
こちらは事前に調査していたし、その見た目が特徴的だったのですぐにわかった。
彼はわたしと最後に会ってから何があったのだろう。
警察官として兄と共にいたと聞いてはいた、……兄が亡くなったその時も。
わたしたちはきっと同じ寂しさを持っている。
でも彼は誰にもその感情を吐露することはない。
今もそうだ、わたしのことばかり気にかけて。
降谷さんはいつ、誰の前でなら泣くのだろう。

「……すみません、取り乱してしまって」

人前で泣くだなんていつぶりだろう。
本当は気づかないふりをしていただけだった。
どうして会いたいと思ったのかも、その相手が降谷さんだったことも。
わたしはこの人の前でなら泣くことができると思ったから。
涙を拭い俯いたままで、降谷さんとの間に両手で距離をとった。

「夜遅くに来ていただいて、その、話を聞いてくださって、ありがとうございます」

「いや……」

とてもじゃないが顔を見ては言えなかった。
きっと酷い顔をしているだろうから。
小言を言われるかと覚悟したが、ぽんと頭に手を置かれわたしの長い髪を梳くように上下させていた。
愛おしむようなその手つきに羞恥心が生まれる。
ふっと笑い声が頭上から聞こえた。

「弱っている貴重な唯が見れた」

「……っ」

「冗談だ、……あんな顔見せるのが他の奴じゃなくてよかった」

「え?」

「なんでもないさ」

最後の方は声が小さすぎて聞こえなかった。
わたしは顔を上げたのと同時に頭を強めに撫で回され、その表情を見ることはかなわない。
せっかく梳いてくれた髪はぐしゃぐしゃだ。
それを直しながら自分の話ばかりだったために、降谷さんの用事をまだ聞けていないことを思い出した。

「そういえば、わたしに用があったんですよね」

確かそう言っていたはずだ。
わたしのせいで重要な要件を伝えられなかったのでは仕事に支障が出る。
お荷物になるのはごめんだ。
彼のために動くのがわたしの使命なのだから。

「あ、でも仕事の話ではないって言ってましたっけ……」

全く見当がつかない。
そもそもわたしと降谷さんの間には、悲しい事に仕事以外の関係はないのだから。
じっとその瞳を見つめてその真意を探る。
彼は顔を逸らさずに笑い、ポケットから小さな化粧箱をわたしの目の前に出した。

「日付は変わってしまったが、誕生日祝いだ」

「……え」

「お前の話を聞いた後だと渡していいものか迷ったが……唯に似合うと思って買ったものだからな」

予想外過ぎて言葉が出てこなかった。
降谷さんが、わたしに?
どうして誕生日まで知っているのか。

「日にちを知ってたのは偶々だ。当日の夜しか行けそうになかったから家にいないと分かって焦ったよ」

思っていることが顔に出ていたらしい。
他に何かあるか、とでも言いたげな顔でこちらを見ている。
あまりにも驚きすぎて降谷さん明日も職場には顔を出さないんだ、なんて明後日の方向に思考していた。

「受け取ってくれないのか?」

「え!?いえ、そんなっ……ありがとうございます、開けていいですか?」

降谷さんが頷く。
化粧箱を開けると、中にはライトブルーの石が付いたピアスが収められていた。
降谷さんの瞳と似た色だと思った。
これをわたしに似合うと思って――。

「あの、つけてみても良いですか?」

「もちろん。ああ、そのまま持っててくれ」

「片手じゃ今つけてるの、外せないのですが」

彼は不敵に笑う。
わたしを見つめながら、左手を頬に沿って耳を隠している髪をそれに掛けた。
降谷さんが前のめりになっているせいで顔が近い。
そのままつけられていたピアスを外され、触れられた耳が熱を持つ。
ん、と今までつけていたものをわたしに渡し、何も言えずにプレゼントされたピアスを差し出す。
ぱちっとピアスがはめられる音がした。
右耳が終わったら左耳、もう一度同じことが繰り返される。
わたしの心臓が壊れる前に、青い石は両耳に収まった。
先程まで泣いていたのとは別の意味で顔が赤くなっている気がする。

「うん、よく似合ってる」

プレゼントを贈った側だというのに彼は兄といた頃のように無邪気に笑っていた。
降谷零としてこんな風に笑うのを見て、わたしは驚きのあとに嬉しさが込み上げてくるのがわかった。
わたしの前でも、兄と同じように笑ってくれたから。
疲れて見えたのも気のせいに思える表情だった。

「今日は会えてよかった、それも渡せたし」

「ありがとうございます、大切にします」

「唯は笑ってるほうがいい、それでも泣きたくなったら……俺を呼べ」

わたしは小さく頷くことしかできなかった。
頭に降谷さんの手の重みを感じる。
急に優しい眼差しでわたしを見るのも、こうやって頭を撫でるのも、今はやめて欲しかった。
また泣いてしまいそうになるから。

「あまり無茶はするなよ」

「降谷さんも」

泣かないよう微笑んで言葉を返した。
送っていくと言って、降谷さんは車に戻る。
来た時と同じ様にわたしもその後を追った。




わたしはこの人の背を守りたい。
兄との約束だけじゃない、自分の意思でそう思った。
涙を流せる場所を、安らげる場所を得られるまで。
それはわたしの隣じゃなくてもいい。
わたしは彼を騙しているから、いつかきっと軽蔑される。
だとしても、降谷零という人間のために偽りのわたしでここにいることを決めた。
だからそれまでわたしを見守っていてください、ヒロお兄ちゃん……。
(2018/6/25)

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