カージオイドと方程式


カランカランと心地いい音が鼓膜を揺らす。家主に暁は帰宅を告げた。

「ただいま」

「おお、今日は早いな」

「もうすぐテストなんです」

気は重いが怪盗業のため本業を疎かにはできない。休学期間があったが前回の試験はそこそこの結果だった。暁の置かれている状況を考えれば、上位をとっておくほうがいいに決まっている。怪盗団もこの時期は休業だ。勉強に集中するしかない。

「そうだった、瀬那ちゃんも同じ事を言ってたな……ほらそこで勉強してるぞ。お前も教えてもらえ」

ボックス席の一番奥、入り口を背にして女の子が一人座っていた。いつもはカウンター席か、その中にいるので気がつかなかった。暁は歩みを進め瀬那がいる席までたどり着く。

「こんにちは」

「あ、暁くん、おかえりなさい。気づきませんでした」

机に教科書やノート、参考書が広げてあった。内容をみるとやはり瀬那は上級生なのだなと改めて実感する。

「テスト勉強?」

「もうすぐ試験ですから。秀尽学園もです?」

逃れたくてもできないイベントに少々嫌気がしながらも、軽く頷いた。苦手でなくても、しなくて済むならありがたいことだ。それにしても何故ルブランなのだろう。学校、図書館、自宅、相応しい場所は他にもあるのに。

「静かなところのほうが勉強しやすくない?」

二、三度瞬きをしてから、瀬那は困ったように暁を見上げる。

「静かすぎる方が集中できなくて……それにここなら惣次郎さんの美味しいコーヒーが飲めます」

「嬉しいこと言ってくれるねえ」

顎髭を触りながら照れたように惣治郎は笑った。そして瀬那へと改めて提案をする。本人の意思確認は後らしい。

「友達できたのはいいが学業が疎かになっちゃあ意味ねえから、よかったら教えてやってくれねぇか」

それを聞いてきょとんとしていたが、少し困ったように笑いお役に立てるかわかりませんが、と前置きして瀬那は了承した。

「暁くんが嫌でなければ」

「俺は有りがたいけど、瀬那の勉強が」

「わたしは大丈夫です」

お願いされて瀬那が断るわけがなかった。そんな場面を暁はみたことがないからだ。明智と同じ進学校に通っているのだから、きっと勉強はできるに違いない。正直暁にとってこの状況はありがたかった。よろしくお願いします、と瀬那の向かいに座り教科書を鞄から取り出そうとすると、モルガナが出て来て背伸びをした。

「ワガハイは昼寝でもしてるから、気にしなくていいぞ」

暁の隣で丸くなって本当に寝てしまった。猫は学業とは無縁だ。それを横目に暁も勉強を始める。学年が違うので彼のわからないところを都度瀬那が教えた。例の事件でしばらく休学していたせいか、間がすっぽり抜けてしまっているようだが、順序よく説明をするとすぐに理解していく。

「ここにαと……βを入れて」

「なるほど、-3か」

「そうですね。……わたしが教える必要、ない気がしてきました」

シャープペンシルを唇に当てて瀬那は苦笑いをする。その何気ない仕草を真正面から見てしまった暁の心拍数が少しだけ上がる。悟られないように眼鏡を上げるフリをして表情を隠した。

「そんなことない、瀬那の教え方が上手いから」

「教えるのはじめてなんです、暁くんが聞き上手なんですよ」

「いや、それは」

「あります」

瀬那の力説ぶりに暁はふっと笑った。お互いが誉めあっている状況が面白くなってしまったのだ。瀬那もそれに釣られて口元を隠しながら控え目に笑う。これが二人きりならば、良い雰囲気なのだが。暁の位置から見える惣治郎の目線が気になり、お喋りは程ほどにして再び教科書とのにらみ合いをし始めた。

「次はこっちが」

「この方程式は、この図形の、ここが……教科書が逆だと教えづらい問題ですね」

「それなら俺がそっち行く」

監視の目線から逃れることが出きて丁度いい。寝ているモルガナを起こさないようにそっと席と立ち、移動する。瀬那は奥へと詰めていてくれた。一冊の教科書を二人で見ながら件の問題に取りかかる。隣に座ったため教える度に肘が触れあう。目線も顔も近くて、息づかいも聞こえそうだ。どうしても隣が気になってしまうが、せっかく教えてもらっているのだからと暁は問題に励んだ。
次の問題に取りかかる暁の横顔を瀬那はそっと見つめる。男の人なのに睫毛長く、黒縁の眼鏡に隠された顔は端正で、意外に我が強そうな鋭い眼差しをしている。普段は静かで誰かの聞き役が多い彼とは真逆だと思った。
ふと、気づいた。そのレンズの向こう側が歪んでいないことに。それが意味することは。盗み見るつもりが思ったより長くなってしまい、視線に気づいた暁と目が合う。

「ん、何かついてる?」

「ごめんなさい、あの目が悪い訳じゃないんですね」

少しの間の後、瀬那の質問を理解した暁は黒渕眼鏡を外した。

「うん、顔の印象変えたくてかけてる」

はい、といって彼女に手渡す。なんの疑問も持たずに瀬那は自身に掛けた。

「だて眼鏡というものですね」

これが暁がいつも見ている景色。たった一枚のレンズに大きな壁を感じた。 他人の視線や悪意をこれで遮っているのかもしれない。引っ越してくる前は顔を知っている人間が多く、たくさんのことを言われたのだろうか。憶測だけで考えるしかできないが、この眼鏡をかけざるを得なかった暁の苦しみを想像してしまった。
勝手に悲しい気持ちになってはいけない。瀬那は頭を降るようにきょろきょろと辺りを見渡し、隣の暁へと視線を戻す。少し大きめの眼鏡を両手でテンプルを支えながら暁を見上げた。そうしていないとレンズの中に収まらないのだ。すると、ぐっと唇を噛み締めた顔の暁がいた。

「似合いますか?」

「……ちょっと、大きいな」

「ですね、支えていないと落ちそうです」

「うん」

すっと目線が外される。やはり了承を得ずの行動だったことがいけなかったのか。瀬那は慌てて眼鏡を外して暁へと返した。

「ごめんなさい、勝手にかけてしまって」

「いや、いいよ」

惣治郎から顔が見えない位置に座り直して、心底よかったと暁は思った。今の自分は頬が緩みきっている自覚があったから。あんな風に小首を傾げて見上げられれば、どきどきするに決まっている。それが気になっている子なら尚更だ。

「喋ってないで勉強しろよ」

監視役として惣治郎が声をかけた。本気で怒っているわけではないのだろう、何時もの調子で新聞でも読んでいるのか、紙の擦れる音がする。背中に目があるようにありありとその姿が思い浮かび、瀬那と暁は目を合わせて笑いながら返事をした。
(2019/3/16)

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