彼女はただ普通に暮らしていただけだった。確かに普通とは少々違う境遇であるという自覚はあったが、それでも不幸だと感じたことは一度もなかった。その日もいつもと同じ日常を過ごし、いつもと同じ帰路に着いていた。しかしいつもと違うことがあった。人気が全くない。まだ日も沈みきらない時間だというのにこんなこと今までなかった。言いようのない不気味さを感じ、自然と荷物を抱え、速足になる。背後から迫ってくる黒い、禍々しいものから逃げるように角を曲がると同時に目の前に鋭い何かが突き出され、驚きで尻もちをつく。

「ご、ごめんな……さ、い……」

誰かにぶつかったのかと思った。咄嗟に謝罪し、彼女は徐々に視界を上げていく。人影は影ではなく、黒く染まった人型をしており、袴に筋骨隆々とした上半身を晒し、笠を被っていた。その肌は青白く、笠から覗く瞳は赤く光っている。それはまさしく――。

「……お、に……っ?」

鬼がゆっくりと笑う。歪んだ口元からは鋭い牙が見え、表情があるのに骸のようで、彼女は背筋が凍った。鬼の手が動く。咄嗟に彼女の体が動き、振り下ろされた物を避けた。

「なっ、な……これ、本物……っ!?」

アスファルトに突き刺さった物。鬼が振り下ろした物。それは見まごうことない刀。何故、どうして、頭の中をぐるぐると回る。唯一わかるのは、このままここに居ては危険だということ。なのに彼女の身体が動かない、足が言うことを聞いてくれない。再び鬼の手が動き、刀がアスファルトから抜かれ、金属音が鳴る。鈍く光るそれを彼女は目線で追うしかできない。振り上げられた刀が今、彼女目掛けて降ろされるその時、雷が落ちたかのような強い光が対峙する間に走る。鬼が顔を押さえ呻き声を上げ霧散していった。

「よかった! 間に合いました!!」

「何、今度は何なの!?」

「今のうちには逃げます! 主さま、早く立ってください!」

「……狐?」

目の前に現れ、直ぐに彼女の袖を咥え、必死に引っ張るのは白く顔に赤い模様が描かれている小さな狐だった。手足は短く、この異常な状況に相応しくない容姿に彼女は面を食らってしまう。

「というか、主って何? あなた、誰なの?」

「説明は後でゆっくりいたしますから、とにかくわたくしについてきてください!」

狐の登場で身体の自由が戻り、引かれ立ち上がると言うとおりに後を走り出した。消え去ったはずの禍々しい気配は未だ周囲に取り巻いている。これは先ほどの鬼のものなのか。あれの狙いは自分らしいと気づいてしまえば、粟立つ肌と合わない歯の根が彼女を襲った。

「わたくしはこんのすけと言います。いいですか、主さま。とにかく今は安全な場所まで逃げ切ることを考えてください。奴らの狙いは主さまです」

「主ってやっぱりわたしのことなのね……狙われるようなことなんて何もしてないのにっ」

「それは主さまが審神者だからです」

「さ、にわ?」

初めて聞く単語。意味もわからず、繰り返す。走りながら話すのはなかなかの高等技術で、命を狙われている事実も相まって、彼女の心臓は破裂しそうだった。

「全ては本丸に着いてから、です」

「さっきの鬼はあなたが倒してくれたんじゃないの?」

「いいえ、追い払っただけです。残念ながらわたくしにはそのような力はございません」

申し訳ないと、こんのすけは謝罪を述べた。逃げるしか助かる術はない、自覚した彼女は必死に足を動かしていたが、気が動転していたせいかその道はいつもの帰路だと気がつく。自宅に行っても鬼を倒せるものなどないし、まして本丸という場所も聞いたことがない。それでもこんのすけを信じるしかなかった。

「もうすぐです! 頑張ってください、主さま!」

返事をする体力はもう彼女にはない。苦手だと言っていないで少しは運動しておけばよかったと心の中でごちても遅かった。空からの襲撃。こんのすけと彼女のほんの少しの間に黒い刀が一本、二本とアスファルトに突き刺さり、彼女はその場でたたらを踏んだ。刀は黒い気を放ち、一瞬で鬼へとその身を変える。

「主さまっ!」

鬼の向こうでこんのすけが叫ぶ。どうすればいい、頼りのこんのすけも鬼は倒せないと言っていた、彼女は必死で考えるが、武器があったとしても振るえる能力もないのだ、太刀打ちできるはずもない。じりじりと後退していく彼女を確実に鬼が追い詰める。

「選んでください! 主さまの、主さまだけの初まりの刀剣を、そしてここに顕現するのです!!」

「選ぶって……どこから、選ぶっていうの――っ!?」

一瞬、鬼の手が動き、刀の切っ先が彼女に届いた。切り裂かれる腕、鮮血が散る。倒れ込む彼女の思考の中に、五つの光が見えた。




水、黄、紅、紫、橙。浮かぶ光の色はどれも綺麗で尊く、命の音を刻みながら、彼女を呼んでいた。その中から今し方見た色に惹かれるように手を伸ばす。紅、赤い血と似た色、でもそれは酷く落ち着く光で、これまで感じていた恐怖を全て拭い去ってくれる温かさだった。

――俺の名前を呼んで。

頭の中に響く声。少年なのにどこか艶のある声が彼女に願う。名前なんて知らない、はずだった。四枚の花弁が二重になった花紋様が光から浮かび上がり、瞬時にそれを理解した。

――ああ、あなたがわたしの初めての……。




「主さまっ!!」

初まる前に終わってしまうとこんのすけの脳裏に最悪の事態がよぎった。自分が犠牲になって彼女を守るとしても、一体相手をしているうちに、彼女が切られてしまうのが関の山だ。高々と掲げられた鬼の刀が座り込んで呆けている彼女の頭上に振り下ろされる。
その時、彼女の目の前に一枚の桜色の花びらがひらひらと舞い落ち、光に包まれる。キィンという金属のぶつかり合う音でこんのすけは安堵の表情を浮かべた。彼女へ向けられた脅威は受け止めたのは、黒いヒールブーツを履き、黒い外套、赤い襟巻、金色の耳飾りを身に着け、長い襟足だけを白い髪紐でまとめた黒髪に切れ長の紅い瞳の少年だった。

「俺の主を傷つけるやつは許さない!」

爪紅を塗った手に握っているのは、鬼と同じ刀。しかし抜き身のそれには禍々しさは一切なく、彼女は白銀の刀身に見惚れてしまいそうになった。

「あなたは……」

「暢気にしてる暇はないよ、さあ主、俺に主命をちょーだい」

背にした彼女を振り返ることなく、軽い口調で彼女に命令をしろと少年は言ってのけた。迷う必要などない、この場で言うことなど一つなのだから。

「——こいつらを倒して、加州清光!!」

「りょーかい!」

言うが早いか対峙していた刀を弾き、一体目の鬼の胴を切り裂いた。もう一体、こんのすけを威嚇していた鬼が加州に向かってくる。勢いを殺さずに走り抜けた加州が、鬼の剣劇を華麗な足取りで避け、素早い突きを放つ。

「オラオラオラァ!!」

空を切る音は三度聞こえたので、彼女はその突きが一度のはないのだと理解できた。鬼は咆哮を上げて霧散していった。その場には何も残されなず、彼女とこんのすけと、刀を振り静かに納刀する加州のみだった。

「ご無事で何よりです、主さま! 最初の刀剣男士も顕現させることが出来て、ほっとしております……」

座り込む彼女の膝元に駆け寄り、何も出来ずに申し訳ない、と続ける狐は一層小さくなっていた。彼女は微笑み、こんのすけの頭を優しく撫でる。

「そんなことない。あなたが来てくれなかったら、逃げることも出来なかったよ」

「あ、主さまあ〜」

「ありがとう、こんのすけ、それと……加州さんも」

「主を守るのは当然ってね。それより、奴らの気配がまだするから、早く本丸まで行ったほうがいいと思うよ」

「あっ、そうですね、主さま、もう少し頑張ってください」

「ん、行くよ、主」

差し出された加州の手を取り、彼女は立ち上がる。こんのすけを先頭に加州が手を引き、予想通り彼女の家の前まで辿り着いた。ここがどうして本丸と呼ばれているのか、説明をすることなく、こんのすけは首に付けた鈴を操作し、木製の和風門を開く。その先に見えるのはいつもの玄関までの短い道ではなく、大きな平屋の日本家屋まで続く、庭のように広がった世界だった。

「おかえりなさいませ、主さま」

「……ここに来るのは初めてだけど」

「ここは今日から主さまの本丸です」

「わたしの家はどこにいったの?」

「ここが主さまの家になります」

どうにも会話が成り立たず、彼女は頭を抱え始めた。見かねた加州はため息をつき、呆れてこんのすけを見下ろす。

「ちゃんと説明しなきゃダメだろ。する暇なかったのはわかるけどさ。てか、先に腕の傷の手当しなきゃ、人間は手入れじゃ治らないんでしょ」

どうにも狐は合理的で端的に話を進めたがる。役割としては間違いではないのかもしれないが、必要なことは済ませておかないと彼女との間にわだかまりが出来、事が上手く運ばなくなってしまう。これから先のことを考えると、加州としてそれだけは避けなけれなならなかった。
とりあえず話は長くなるからと、屋内へ入ることを勧た。幸いにも傷は深くなく、救急箱で加州が処置を行った。破れてしまった服から、審神者の部屋の支給品である巫女服に着替え、一人と一口と一匹は中庭の縁側へと足を運ぶ。真ん中には大きな木が植えられていたが、花も葉も芽吹いておらず、寂し気に枝を風に揺らしていた。

「主さま、まずはあなたさまの役割を説明いたします」

ここは西暦二千二百五年、政府は過去へ干渉し歴史改変を目論む、先ほどの鬼――時間遡行軍を率いる「歴史修正主義者」に対抗する者を探し始めた。それが物に眠る想いや心を目覚めさせ力を引き出す能力を持つ「審神者」と、刀剣より生み出された付喪神「刀剣男士」である。

「つまり、主が審神者で、俺が刀剣男士ってこと」

「わたくしめは政府から遣わされた管狐でございます」

「じゃあ、わたしが時間遡行軍? に狙われたのは……」

「敵対する戦力を生み出す審神者を一人でも減らしておきたいからでしょう」

審神者の能力は貴重なのだ、と力説するこんのすけを余所に、今までの事象と説明を呑みこむめずに彼女の視線は足元だけを見つめ続けていた。言っていることを疑っている訳ではない、ただ頭が追い付かないのだ。無意識に握りしめていた両手に加州が手のひらを優しくのせる。

「こんなの急に困るよね、傷つけられてさ……あー、なんかまた腹立ってきた」

くっそ、と悪態をつき、加州は縁側から離れ、木の根元へと向かった。拳を緩め、その背を眺める。少年は刀を握っているときとは違い、まだ幼さが垣間見えた。

「緊急事態とは言え、このような形になってしまいましたが、どうか審神者の任、引き受けてくださいますでしょうか」

「嫌だって言って、元の時代に戻してもらうことは出来るの?」

「可能ですが、また歴史修正主義者に狙われる可能性が高いです」

「それは困るなあ。…………わたし、で、いいかな」

「勿論です。主さまには審神者の力がございます。加州清光を顕現出来たのがその証拠」

あまりにも当たり前に話し、動き、接しているので、加州が刀剣男士と呼ばれる付喪神だというのを忘れてしまいそうだ。助けてもらうために呼んでおいて、助けてもらったらさようなら、とは彼女には出来そうもなかった。

「わかった、上手く出来るかわからないけど、やってみる」

こんのすけの下がっていた眉尻が一気に上がり、ワントーン上の声でありがとうございます! 、と叫ぶような声を出した。政府から遣わされたこの狐は、彼女を審神者に勧誘することが任務だった。まさかの時間遡行軍の襲撃に焦りもしたが、こうして彼女が引き受けてくれたことで、安堵の涙が滲む。こんのすけの声に驚いた、加州がこちらを見ていると気づき、彼女はこんのすけを抱きかかえてそばに歩み寄った。

「正式に審神者になったってことかな」

「はい」

「じゃあ、改めて自己紹介しとくね。川の下の子です。加州清光。扱いづらいけど、性能はいい感じってね」

「わたしは、みもり――」

「待った!!」

突然の静止に思わず彼女の身体がびくついた。声を出した張本人であるこんのすけは、彼女に抱えられたまま冷や汗を流し、加州は切れ長の瞳を大きく開いて硬直していた。

「あの、何かまずいこと、しました?」

「はあ……政府の遣いって説明も十分に出来ないの?」

「返す言葉もございません……」

完全に耳を下げたこんのすけを撫で、小首を傾げる彼女に、加州は再びため息をついて口を開いた。

「いい? 審神者とか主って呼ぶのは、あんたの名前を知らなくてもいいようにするためなの。俺たちはこう見えて付喪神だから、人の子なんてどうにでもできる。今は審神者の力が強いから無理だけど、何かの拍子で力関係が逆転して、相手の名前がわかれば簡単だ」

「簡単って……」

「攫えるってこと」

加州の人差し指が彼女の唇に触れると、顔をぐっと近づけ、紅い瞳が艶やかに歪む。一瞬で背筋が凍り付いた。

「ってことだから、主は名乗らないこと。俺たちは気にしないから。わかった?」

「……はい」

「俺は主が選んだ刀剣だから、そんなことする気ないし、安心して」

凄みはすぐになりを潜め、穏やかな微笑に変わる。肩の力が抜けるが、今後、審神者としてやっていけるか、不安が募った。

「大丈夫ですよ、主さま。わからないことは加州清光が教えてくれます」

「そういうこと。俺は主が選んだっていう、特別な刀剣だからね、ちゃんと大事にしてね?」

「はい、よろしくお願いします」

彼女が差し出した手を加州は迷いなく握り返した。互いに不安はあるものの、伝わる温もりからは確かな信頼を築けていけると感じ、笑う合う。桜色の花びらがひとひら、加州の周りを舞い落ちていった。花も付けていない大木なのに、と不思議に思ったが、目の前にいるのは刀の神様なのだし、何が起こってもおかしくはないか、彼女は一人納得する。



こうして彼女は審神者になった。
(2020/6/22)

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