審神者の仕事は刀剣男士を顕現しなければ始まらない。歴史修正主義者と戦うために歴史上の合戦場に出陣するにも、遠征に派遣するにも、本丸で生活するにも、そして、刀剣男士を鍛刀するための資源を集めるにも、とにかく刀剣男士が必要だった。どこの本丸にも最初は政府から支給された最低限の資源が与えられているため、それを使用するのが一般的だ。

「では早速ですが鍛刀を行いましょう。鍛錬所があちらに、ご案内いたします」

審神者の腕に抱かれていたこんのすけが軽やかに地面へ着地した。そして踵を返し、審神者と加州を置いて、中庭から縁側に上がる。それを追いかけようと審神者が一歩足を踏み出したとき、急激な眩暈が襲ってきた。

「主っ」

横倒しになる身体を加州が咄嗟に支え、ゆっくりと屈み、自身の片足の上に座らせた。意識は失っていないものの、顔色が悪く、眉根を寄せ、額を押さえて痛みを耐えているように加州には見えた。

「どっかぶつけてない? 痛いのは頭だけ?」

「……すみません、大丈夫、です」

「倒れといて何言ってんの……。こんのすけ、今日の仕事は終わり! 主はもう休ませるから」

背中とひざ裏にしっかりと手を添え、加州がこんのすけに呼び掛けた。よいしょ、掛け声とともに審神者の身体が浮く。戻ってきた狐はその状態を見、慌てて審神者に与えられた部屋に連れて行く。机や座椅子、棚など最低限の家具のみが置かれた飾り気のない部屋が執務室、その奥が審神者の私室になっており、加州が敷いた真新し白い布団の上に審神者は横に寝かされる。

「立て続けの出来事で心労が祟ったのかもしれません。気づけませんでした……」

「俺もだ……、主、ごめん」

「いえ、最初から頼りなくて、申し訳、ないです……」

先が思いやられますね、自虐的に笑う審神者の傍らに座る加州は唇を噛みしめる。こんのすけに至ってはずっと耳も尻尾も下がったままだ。審神者が謝る必要などない、無理をさせたのは自分たちなのだから。

「本来なら倒れるほどの霊力を消費しておりません。ですので、一日休めば良くなるでしょう。わたくしは本日で一度戻らなけれなならない故、明日からのことは加州清光に聞いてください」

「……わかりました」

「俺はここから一番近い部屋、使わせてもらうよ。今日は主が眠るまでここにいるから、安心して」

その言葉に重たそうに瞬いていた瞼が閉じていき、暫くして規則正しい寝息が聞こえ始めた。加州は一息ついて、足を崩し、後ろに手を付いて天井を仰いだ。

「人間って難しいなあ」

「刀剣男士も人の身体を借りています、他人事ではありません。戦えば刃こぼれの代わりに怪我をしますし、無理をし過ぎれば主さまと同じように疲労で倒れます。そして最終的には折れる、ということです。主さまに苦労を掛けないようにしてください」

「……ご忠告どーも」

「では、わたくしはこれで失礼いたします。あまりお話しできずに申し訳ない、何かありましたら執務室の端末からご用命ください、と主さまにお伝えください」

「はいはい、お疲れさまでした」

ひらひらと片手を振って加州は小さくお辞儀をするこんのすけを見送った。話相手が居なくなったため室内は静まりかえり、審神者は目を覚ます気配がなく、加州の胸にどんどん不安が募る。目の前で倒れたときは心臓が止まりそうで、大分顔色が戻ってきているがこのまま目覚めないなんて、そんなあり得ないことが頭をよぎる。あの人とは違うのだ。頭を振って頬を軽く叩く。このままずっと審神者の寝顔を眺めていても出来ることはない。巫女服に着替えたばかりだが皺になってしまうので、白い寝間着に着替えさせてから、近くの部屋で加州も休むことにした。




ゆっくりと審神者の閉じられた瞼が開き、数度瞬きが繰り返される。見たことのない天井、横を見ると障子が張られた襖の向こうからぼんやりと明かりが漏れていた。ここは彼女の知っている世界ではなく本丸と呼ばれる新しい審神者の居場所。まだお昼くらいの明るさだったのに、今は日が落ちてしまっていた。身体を起こしてみると、衣服は白い寝間着に着替えており、巫女服は頭上で綺麗に畳まれていた。布団から這い出て、襖を開ける。月と星が瞬く下なら灯りがなくても移動できそうだった。もう一度横になる気にならず、着替えようにも巫女服へは加州の助けがないと着方がわからない。諦めてそのまま加州が使っていそうな部屋を探すことにした。
不安だった。加州清光が居た、という痕跡はあれど、それは夢か幻で、この広い未知の世界に自分独りなのではないか、と。審神者は自然に速足になり、個室が沢山並ぶ縁側にたどり着く。その中で一つだけ襖の閉じている部屋をすぐに見つけた。
いざ襖の前に立つと、どう声を掛けていいかわからなくなり審神者は逡巡してしまった。既に寝ているかもしれない、自分勝手に起こしては申し訳ない、そもそも付喪神が寝るのだろうか、夜更けに訪れるなど迷惑だろう。来訪を告げようとした審神者の手は襖に触れる手前で止まったままなのに、自動的にそれが横に開いた。ぱっ、と視線を上げると、目の前には白い寝間着姿の加州が審神者を見下ろしていた。

「もう動いて大丈夫?」

「はい……、起こしてすみません」

「まだ起きてたよ。主がなかなか声かけてくれないから、どうしたのかと思った」

「気づいていたんですね」

「まーね」

何かの気配がしたので起きたのだが、それが審神者だとすぐに気がついて、暫くは布団の上で待っていたのだが、加州、と自分の名を呼んでくれないので痺れを切らせてしまった。この本丸の当主であり、いずれは大勢の刀剣男士を率いていかなければならないのだから、この消極的な態度では辛い思いをしていくかもしれない。刀剣男士にも政府にも、いいように扱われては困る。

「そんで、何かあった?」

「加州さんがいるかなって」

審神者の視線が彷徨い俯いてしまったのを見て、まだ何か吐き出せていない本音があるのではと悟り、加州は、言いたいことはちゃんと言って、と努めて優しく話した。

「……寝て起きたら、加州さんが居なくなってるんじゃ……ないかって……。全部、夢……だったんじゃないかって、不安になって」

尻すぼみになっていく言葉に、赤い爪紅が塗られた手が審神者の頬に触れる。すっかり冷え切っていた審神者の身体に加州の体温は心地よく、瞳を閉じてその温もりを実感した。もっと理解させるために加州は親指で審神者の頬を数度撫でる。

「ちゃんと触れられるでしょ、俺が主を置いて居なくなるなんてことありえないよ。それより、身体冷えてちゃってるじゃん、これ着て、こっち座って」

「え、でも、加州さんは?」

「俺はへーき」

部屋から持ってきた羽織を押し付けると、部屋の前の縁側に腰掛け、審神者にも隣に来るよう床を軽く叩いた。加州の羽織を肩にかけてそれに従う。審神者がちらりと横目で見やると、加州は足を組み、右手で長く伸ばして括った後ろ髪を弄り始め、視線に気づいたのか赤い瞳が審神者とかち合った。

「主さ、俺にまでそんな堅っ苦しく話ししてたら疲れちゃうよ、もっと気軽でいいって」

「気軽、ですか?」

「そ、あとはもっと強気に。この本丸で一番偉いのは主なんだから」

「じゃあ、えっと、清光……?」

「なあに、主」

名前を呼ばれた加州が満足そうに笑うのを見て、審神者も同じく微笑み軽く声を上げて笑う。こんのすけがいなくなり、ふたりきりになった緊張の糸がようやく弛んだのだ。加州は審神者の笑みの先を静かに待った。

「清光を呼んだとき顕現させたってこんのすけが言ってたけど、清光は刀の神様なの?」

刀剣男士、という言葉を彼らが使っていたのを審神者は覚えていた。

「俺は沖田総司が使っていた刀なんだ。知らない? 新選組の沖田総司」

「あんまり歴史には詳しくないけど、新選組くらいならわかるよ。江戸末期に活躍した人たち……だよね、池田屋とか」

顎に指を当てて審神者は授業で習った内容を思い返す。それでもそれ以上のことは出てこず、今後の刀剣男士に対してもわからないことが多く苦労しそうだ、と先が思いやられた。加州は審神者の少ない返答に、眉尻を下げて笑うと夜空を仰ぎ見る。審神者もつられると雲一つない綺麗な空の中に輝く三日月が浮かんでいた。

「そこで、俺はあの人と一緒にいたんだ。そして……俺は折れて、あの人はたくさん血を吐いてさ。労咳って病気だったんだ。敵のものかあの人のものか、わからないくらい俺の視界は真っ赤になった。それでもあの人は戦ったよ、あの時代を守るために、仲間のために」

折れた、その言葉に審神者の胸は痛みが走る。清光の表情は何も変わらず、ただ淡々と昔話をしているだけと言ったようだった。それが尚更苦しくて、審神者は横に置かれていた加州の手に自身の手を重ねた。驚きで震え、再び視線が交わったあと、加州によって指がゆっくりと絡めとられる。

「あの人はもう戦える身体じゃなかった、養生するもそのまま……。俺のことも直そうとしてくれたけど、どうにもならなくてさ。戦いたくても一緒に行けなかったやつもいるんだ、刀として最後まで使ってもらえただけいいと思わないとね」

乾いた笑いが審神者の耳に届いた。無理に笑う必要なんてない、ただ自分を苦しめるだけなのに。

「無理に割り切ることなんてない、納得のいく結末なんて誰もが迎えられるわけじゃないから」

「……そーね」

ため息交じりの同意と共に赤い瞳が閉じられる。自分のことを話せと言われたわけではない、でもこれを逃せば、もうこんな機会はないだろう。明日になれば新しい刀剣男士を顕現する必要がある。審神者と加州だけの夜は、今だけだった。

「わたしね、本当にどこにでもいる普通の人間なの。あの家で去年までお祖母ちゃんと一緒に暮らしてた。思い出はあってもやっぱり独りは寂しくて……どう生きていけばいいのか、わからなくなってたの。審神者だなんて急に言われて戸惑ってたけど、こうして清光と会えたのは素直に嬉しかった。独りじゃ、なくなったから」

軽蔑されるかもしれない、それでもきちんと話しておきたかった。未来の政府に急に言われたからと言って世界を救うためだなんて英雄めいたことを思えるはずもなく、打算があったと、審神者は加州に知っていて欲しかった。

「それでも審神者としてわたしが必要とされてるなら、頑張ろうと思う。でも、わたし一人じゃ何も出来ない。だから……清光に、手伝って欲しい」

お願いします、加州に向き直り頭を下げようとしたとき、審神者の額目がけて加州が額をぶつけてきた。鈍い音がしたが、審神者は逃げずに視線だけあげると、赤い瞳がすぐ目の前で見つめている。言われたとおり審神者なりに強気で言ってみたが、やはり神様相手に分躾だっただろうか。審神者は視線を逸らさず、加州の言葉を待った。

「当たり前のこと聞かないでくれる。俺はそのために主に呼ばれたんだ、初めての刀剣男士として」

「……ありがとう」

艶やかな笑みを浮かべ、加州は身体を起こした。今にも泣いてしまいそうな頼りない新しい主でも支えていくのが自分の仕事だ。それ以上に、この胸によぎるあたたかな感覚は何なのだろう。人の身体は刀の身では持ちえないものが多すぎて、刀を振るう以外のことは理解するまでしばらく時間がかかりそうだ。

「月、綺麗だね」

どちらともなく夜空を見上げ、ふたりで暫く何も言わずに眺めた。繋いだままの手を片方が強く握れば、もう片方が返す、隣の存在を確かめ合っていたのだが、その内審神者の反応が鈍くなってくる。不意に感じる肩の重みに加州が首を捻った。眠ってしまった審神者が加州にもたれ掛かったのだ。安心しきった寝顔に自然と頬が緩みそうになるのを堪えた。

「あんたは俺のこと、愛してくれる……?」

囁いた願いは誰にも届くことはなく消えていく。耳元で聞こえる寝息が一定の間隔を刻み、加州にも眠気を誘い始めたので、審神者を起こさないように静かに抱き上げ、加州が元々敷いていた布団へと寝かせるまでは良かった。審神者から身体を離そうとしたが、加州の寝間着の襟をしっかり掴んでおり叶わなかった。

「えー……マジかあ、布団一枚って狭いよな……」

審神者が来るまでひとりで寝ていたときは左右どちらの寝がえりをうっても問題なかった。こうして上から眺めるとふたり並んでぎりぎりの幅で。むしろくっつかないと掛け布団からはみ出てしまうかもしれない。ひとりで眠りにつくのもなかなか時間がかかったというのに、そんなことをして加州は自分が寝られるか不安になった。しかし中腰のまま一夜を明かすつもりもなく、加州は同じ布団へ潜り込み、風邪をひかさないために審神者の腰に手を回し自分の方へ引き寄せようとしたのだが、その前に審神者自ら加州の掴んでいた襟を引っ張り、その胸にすり寄る。繋いでいた手とは違い、全身で感じる温もりと隙間のない距離に先ほどと同じくあたたかな感覚が胸いっぱいに広がっていく。主だからなのかとも思ったが、あの人に大事にしてもらっていたときと似ているも少し違う、名前はわからないが、この心地いい感覚にもっと身を埋めていたい。

「……おやすみ、主。また明日」

しっかりと審神者の身体を抱きしめて、加州は瞳を閉じる。こうして寝てしまえば不思議と狭さなんて気にならなかった。
(2020/6/22)

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