なんだこれは、なんなんだこれは。
目の前で起こっていることに頭の理解が追い付かない。煤けた匂い、血の色、仲間たちの呻き耐える声。炎に揺らめく本丸を目の前に俺は呆然と立ちすくんでいた。違う、こんなのは違う。いつもなら出陣から帰ってきたら、主がおかえり、って一番に俺を迎えに来てくれて、一緒に執務室まで行って報告をするのに。主はいない、その代わり本丸に残っていた数十名の刀剣男士たちが地面に寝かせられていた。その周りを右往左往しているものと泣き崩れているものがいて、寝かせられている何名かは……既に折れているのだと思った。でもどうしてそう思ったのか、それが誰なのかは何故かわからなかった。共に出陣していた男士は俺に声を掛けて、各々敷地内へと散っていく。それすら耳に入らない。

「清光っ!!」

いつもとは違う怒気の含んだ声に見やると、だんだら羽織を靡かせた傷だらけの安定が刀を仕舞いながら駆け寄ってくる。顔は所どころ黒く汚れ、白い襟巻の裾は真っ赤に染まっていた。喉は熱で焼けてしまったのだろう、掠れて聞いているだけでも辛そうだった。

「……何が、あった?」

「奴らが、時間遡行軍がここにっ。急に現れたんだ!!」

「本丸に? そんなことあり得ない……」

「僕らもそう思った……、でも、今起こってることは何なんだよ!?」

「——っ」

歴史修正主義者と戦うために政府から与えられた任務を遂行するための場所、本丸。ここを落とせるようになれば、相手がかなり有利になる。だからこそ政府は本丸が襲われないように仕掛けを施している。それが破られることなんてありえない、そう思っていた。だって、ここには、本丸には……審神者がいるのだから。

「そうだ、主は!? 主はどこ、安定!!」

勢いよく安定の肩を掴み揺さぶった。そうだ、ここには審神者が……主がいる。俺たちが何よりも守らなければならない存在。それなのにその姿がどこにも見当たらない。怪我が痛むのか、顔を歪めた安定が俺の手を掴み、俯いたまま呟く。

「……多分、主の部屋だ。薬研と一緒だと思う。あいつが一番に走って行ったから」

「じゃあなんで、お前も行かないんだよ!」

「奥から遡行軍が沸いてきたんだ! 行きたくても火を使われて、戦い慣れてないやつから次々に狙われて……」

「だからって……主が最優先だろ!!」

「そこまでだ、加州清光」

「……石切丸」

本丸の中から連れ出してきたらしい包丁藤四郎を抱えていた大太刀は、この場に似つかわしくない静かな口調で俺を制した。

「今は安定を責めている場合ではないだろう?」

その通りだった。安定は何も悪くない。奇襲された中で最善の行動を取っていたはずだ。だって、こいつも何より主が大事なんだから。唇を噛みしめて耐える姿に、当たってしまったことを申し訳なくなり、そっと手を放した。

「加州清光、主を探しに行ってくれ。室内戦で私は足手まといにしかならなくてね」

戦力になる石切丸が救護をしているのが不思議だったが、大太刀を振り回すには室内は狭すぎる。苦渋の選択なのだと思った。端々に隠しきれない怒りを感じたから。

「任せといて」

「ああ、私は屋外の敵を殲滅してこよう」

「僕は……」

「大和守安定は少しの間ここで傷ついたものの護衛を」

それは暗に休めと言っていた。疲労は戦力の低下を招く。二次災害を防ぐためだ。安定も悔しそうだが理解をし、俺と石切丸を見送る。

「清光、主を頼んだからね!!」

泣きそうな声に片手を上げて答え、俺は本丸の中に足を踏み入れた。
見慣れた室内のはずなのに、そこかしこから殺気が感じられ、戦場と同じ雰囲気を肌で感じる。俺たちの大事な場所をこんな風にした遡行軍を、必ず全員殺してやらなければ気が済まない。ブーツを脱ぐことなく上がり框をまたぎ、刀に手を添え、俺は主の部屋を目指した。途中、遡行軍と戦っているやつらもいたけど、全て任せて、ただ真っすぐに主の元へと走った。まだ俺たちがこの姿で存在出来ているということは主も生きているということだ。主がもし……そうなった場合、俺たちは人の姿を保てなくなる。薬研が主を守ってくれているのだろうが、あいつがいくら強くても、力と数で押されては短刀一口では勝てはしない。出陣先から帰ってきたときの、目の前の光景を見ては不安しかなかった。早く、主も薬研も無事でいて欲しいと願い、足を動かした。

「主、どこ!!」

力いっぱい開けた主の私室にその姿はなく、いたのは遡行軍の打刀と脇差の二体。察していた気配は求めていたものではないと分かっていたので、直ぐに抜き身の刀を横に振るい目の前の打刀、続けざまに向かってきた脇差の突きを払い下に斬り下ろす。遡行軍は呻き声と共に霧散した。不意を付けたのとあまり強くない相手でよかった。俺よりも前に室内では戦闘があったことを示す刀痕や真新しい血の痕があった。これが主のものでないことを祈って、もっと奥へと向かう。道中も狭い廊下でならサシの勝負だ、負けやしない。例え中傷になっても動ければ問題なかった。
だんだんと炎と煙が酷くなっていく。この先は刀剣男士たちの部屋と中庭がある場所だ。部屋数が多すぎるため、敵を倒しながら気配を探る。近い、主の霊力がするのは中庭だった。急いで廊下から中庭に降りる。出陣したときには綺麗に咲いていた桜が、今は全て落ちて、大木も焦げてくすぶっていた。その下で主が力なく倒れている薬研を抱えて蹲っていた。

「主!!」

俺の叫びは届かない。大太刀が降り下ろした刃を間に入り受け止め、その馬鹿力にヒールが埋まる。刃をそのまま滑らせ相手との距離を縮め、身体を斜めに外し、横を抜けて巨体を切り裂く。そして打刀の一体目には刀を向けられる前に蹴りを入れひるませている間、もう一体の懐に入り込み三度突きを放ち倒す。以外と早く立ち直った打刀が俺の脇腹を軽く引き裂いてきたので、逆回りで身体を捻り首を深く切った。周囲の安全を確認し、刀を一度振ってから納刀、乱れた息を整える。未だに主は顔を上げずに肩を震わせていた。そっと肩に触れ、声を掛ける。

「……主、怪我はない?」

「薬研くん、が……わたしを庇って」

首を横に振って答えた。その頬から伝った雫が膝の上で寝かせられている薬研の頬に落ちていく。薬研の顔色がいつもよりも白く、所々に赤い線が刻まれており、主の右手が押さえている薬研の腹からは赤い浸みが広がっていた。さっき見た血痕は薬研のものだったらしい。俺は赤い襟巻を外し、薬研の腹部にきつく巻き付ける。圧迫し過ぎたのか一瞬眉根がより、小さな呻き声が上がった。

「大丈夫、まだ薬研は折れてないよ」

「でも呼んでも起きないの」

「主がいてくれれば直せるから、だからここから出よう」

主を庇って深手を負ったのだろう。やっと俺を見た主の顔は泣いて瞳が真っ赤になり、頬も手も薬研の血で汚れていた。可能なら俺が主を背負って、早々に脱出したいところだが、まだ息のある薬研を置いていくわけにはいかない。主がそれを望まない。背中に薬研を背負い主に手を差し出すと、濡れた瞳で見上げて恐る恐る俺の手を取ってくれた。その手を引いて走り出す。

「清光も傷だらけ……ごめんね、ごめんなさい」

「謝る必要ないよ、主を守るのが俺たちの役目だ」

「ううん、本当に、ごめんなさい」

何故だか会話にならない。主は今の状況にすっかり参ってしまったらしい。思えば泣いている姿を見るのも初めてだった。何とも言えない違和感が付きまとうが、ゆっくり考えている時間はない。室内は焼け落ちてしまうと危険なので外庭を通って門扉のみんなのところに合流しようとした。が、その考えは遡行軍に読まれていた。既に外庭に部隊が編制されており、直ぐには合流出来ない。倒しながら進むしかない。薬研を背負いながら、主を庇いながらでもやってやる。

「……清光」

「絶対に俺から離れないでね」

「うん、わかった」

「行くよっ」

繋いでいた手を放し、刀を抜いて外庭に足を踏み出した。襲い掛かる遡行軍の刃を弾きながら、倒すよりも通り抜けることを優先に進んでいく。大丈夫だ、切っ先が折れない限りいける。そう思った矢先だった。

「清光!!」

悲鳴にも似た、主の声。急激に接近する部隊が一つ。目の前の一体を払い、二体目を突き刺し、再び駆け抜けようとしたそのとき、影になっていた三体目に気がつかなかった。咄嗟に防ごうと刀を構えるも、高速で繰り出される槍が俺の急所を確実に狙ってくる。ああ、折れる……、そう思ったときだった。


――俺の身体が、何かに、突き飛ばされた。


「あ、…………」

薄い羽織が風で飛ばされていく。主の白衣が徐々に赤く染まり、袴も同じ色になっていく。貫いた槍を主の身体ごと軽々と持ち上げ、そいつは咆哮を上げた。戦に勝ったとでもいうかのような。振り下ろした槍から主の身体が地面に落ちて転がる。

「ある、じ……主っ!!」

背負った薬研がずり落ちるのも気にせず、もつれる足で必死に主に駆け寄った。抱き上げると主は咳込み肺もやられたのか血を吐き、腹部からぽたぽたと滴り落ちる赤が土に血だまりを作っていた。その様子をみて、遡行軍は次々と姿を消していく。目標であった審神者の討伐を完了したのだ、勝手に顕現できなくなる刀剣男士など放っておけばいいのだから。それでも俺は主を諦められなかった。

「なんで……、なんで俺なんて庇ったりしたんだ……っ」

「……う……あぅ……っ」

「俺は人間じゃない! 傷ついても手入れすれば、……治る、のに」

「……身体……勝手にうごい、た……ちゃった……」

はは、と乾いた笑い声をあげる。傷口を押さえるも、薬研と違って止まる気配は全くなかった。緩やかに、しかし確実に温かい命が流れ出ていく。主の霊力も失われつつあるらしく、薬研は既に人の姿を保てなくなっていた。俺も、もうすぐそうなる。主が俺なんかを庇ったせいで。

「ごめ、ね、きよみつ……目の前、で傷つく……見てら、な……た」

「謝らないでよ……俺、愛されるために今まで頑張ったのに。それなのに、こんな……」

「愛してる、よ……誰よりも、あな、たのこと……」

ゆっくりと持ち上げられた腕に気づき、両手で主の手を握りしめると、嬉しそうに微笑んだ。俺の瞳から堪えきれなくなったものが溢れて零れ落ちる。

「だか……折れてほ、く……なかった……っ、綺麗なままで、いて、欲し……たの……」

「なんだよ……それ……」

昔折れてしまったことを俺よりも主が気にしていたなんて、最期に知ることになるとは思わなかった。それもその命を犠牲にしてまで。俺も主のことを誰よりも愛しているのに、比べ物にならないほどに主の愛は大きかった。嬉しい、幸せなのに、苦しくて、胸が痛い。

「ねえ、最期、おねが……、な、まえ……呼んで、きよみつ」

名前……、初めて主と会ったときに教えてもらった俺だけが知っていて、今まで過ごしてきて一度も呼んだことがない、主の名。緊張で唇が震える、喉はからからで、息が乱れ、少し口篭もってしまった。

「…………みもり」

それでも主は、ふっと口角を上げた。薄桃色だった唇はもう真っ白だった。

「もう、いっかい」

「みもり、みもり……っ」

主が望むなら、何回だって呼ぼうと思った。最期だなんて嘘だと。しかし、支えていた主の腕は力が失われ、瞼は二度と開く気配がない。俺を顕現している霊力も間もなく絶えるだろう。これで終わりなのか。主に一番に愛されたかったけれど、主やみんながいる本丸がなくなるなんて最悪過ぎて、夢だと思いたかった。俺はただ主の身体を抱きしめるほかなかった。




自分が泣いていると気づいて目が覚めたのは初めてだった。呼吸が少しだけ乱れていたので、二、三度深呼吸をする。ここは本丸だ。本丸の手入れ部屋。そこに俺は寝ていた。起き上がろうと身体に力を入れると節々が悲鳴を上げた。天井を見上げたまま思い出したのは、先の出陣で重傷を負ったこと。それで誰かに担がれて帰ってきたこと。……本丸は何事もなく無事だったこと。やはりあれは夢だったのだ。とても最悪な夢だった……ほっ、胸を撫でおろすと、俺の手が何かに握られていることに気がついた。そちらを向く。細く、華奢なそれは主の小さな手だった。主は畳の上で横になっており、大きな瞳がさらに見開かれ、俺をじっと見つめていた。

「っ!!? あ、るじ!?」

あの夢のあとで、いきなりの目の前に顔があって、痛みも忘れて布団から飛び上がってしまう。主は手を放すことなく、迷わず俺に抱きついてきた。上に何も身に着けてはいない代わりに包帯が巻かれており、これも主がしてくれた手入れなのだろうかなんてぼんやり考えてしまう。直接肌に触れた温もりが確かに主がここに存在していると教えてくれて、泣いてしまいそうな自分を隠すために、主の肩口に顔を埋めた。

「目覚まさなくて、心配したんだから」

「……ごめん、悪い夢、見てた」

「怖い夢?」

ふふ、と俺の顔を見上げていたずらっぽく笑う。何がおかしいんだろうと不思議に思っていると、主の指が優しく俺の頬を撫でて、大丈夫だよ、と呟いた。そうだ、俺が起きたとき、主はじっと俺を見ていた。俺が夢を見て泣いていたことを隠さずとも知っているのだ。理解した途端に火が出たのではないかと思うくらい顔が熱くなり、繋いでいない手の甲で主に見られないように隠す。

「……そーね」

「わたしの名前、呼ぶ……くらい?」

「…………え」

一瞬何を言われているのかわからなかった。見上げる主の顔は先ほどよりも若干赤く、何でもなかった上目づかいに心臓が跳ねた。確かに呼んだ。何度も呼んだけれど、それは夢の中の話のはずだ。あの最悪な夢の中で主が望んだから……、そもそも、あれは夢なのだから、主が名を呼んで欲しいのではなく、俺が呼びたいという願望の表れなのではないか。本丸を壊滅させたいなんてことはこれっぽっちも思ってないが、一番愛されたいと名を呼びたいを掛け合わせた結果の夢なのだと考えると……。ぐるぐる思考が巡るも夢なんて結局自己操作出来やしないのだ。何を見ようと自由なのかもしれないが、それを主に悟られるなど羞恥心でどうにかなってしまいそうだった。

「ごめ、忘れて……」

俺が主の名前を知っていることは数人しか知らない。本当は知られてはいけなかったのだが防ぐことが出来なかった。これ以上増やしてしまわないようにするためにも呼ばずにいたのに、夢だか現実だかわからない間にやってしまうとは。主の可愛さに眩んだ目が一気覚めた。

「嫌、って言ったら呼んでくれる?」

「……は?」

「……起きてるときも、聞きたいよ」

予想外の反応に下ろした手は主にかすめ取られ、両手を小さな手で握りしめられる。微かな震えと懇願する瞳。

「ねえ、今だけでいいから……わたしの名前、呼んで、清光」

そんな風に見つめられて拒否出来る刀剣男士など、この本丸に存在しているはずがない。俺の名前を平常時とは違う甘い声で、しかも無意識に紡ぐなんて反則だ。心臓があり得ない速さで動いている。かっこ悪いから悟られないように、一呼吸置いて、ゆっくりと大切に言葉を発した。

「……みもり」

「うん」

俺の言葉を噛みしめ答え、頬を朱色に染めて微笑んだ。やはりだめだ、俺は特別主に弱いらしい。両手を掴まれていてよかった。抱きしめてしまいそうだった、多分背中に回しても触れられなかったと思うけれど。代わりに自分の額を主のそれに合わせて何度も繰り返し呼ぶ。

「みもり、……みもり、俺のこと愛してる?」

「もちろん愛してる、清光」

「……心配かけて、ごめん」

間を開けずに笑いながら主は抱きしめてくれた。流石に『一番』かどうかは聞けず、だから主も言わなかった。そのせいなのだろうか。躊躇いのない動作を羨ましくも、切なく思った。もう出陣でこんな失敗はしない。夢見は悪く、主に迷惑をかけて、かっこ悪いところを見られてしまうしで最低最悪。何より主を失う痛みは夢でもごめんだ。守り抜くために、今よりももっと強くなって、一番愛してもらうのだと心に決めた。
(2020/7/12)

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