保健室の障子の前に気配があるのに中には入ってこようとしない人物に伊作は声をかけた。
「ナマエ、僕しかいないから入ってきていいよ」
「……」
呼びかけてもその人物、一つ年下で伊作と恋仲であるくのたまのナマエは動かなかった。
「ナマエ?どこか悪いのかい?」
「……」
再びの呼びかけにも反応がなく、伊作は立ち上がって障子に近付いた。障子に手をかけようとした瞬間、空気が重くなった。
「開けないで、伊作先輩」
ナマエが言葉と共に放ったのは冷たい殺気だった。伊作は手を下し、障子に凭れるようにその場に座った。
「何があったか話して」
「……」
「ナマエ」
伊作は優しさを含んだ声でナマエの名前を呼んだ。重かったその場の空気が少しだけ軽くなり、ナマエがぽつりぽつりと話し始めた。
「さっきまで戦力調査の演習でとある戦場に行ってたんです」
「うん」
「もう一月近く戦をしていて、兵も周りに住む民も疲弊していて、あちこちに死体もあって、地獄みたいな戦場で」
「うん」
「早く帰りたくて調査を終わらせて、いざ戦場から離れようとしたら、近くで泣いている娘がいたんです。話を聞いたら、妹さんと山菜を摘みに来たのにはぐれてしまったと言っていて。妹さんを探したくても、気が荒立っている兵もいて怖くて動けなくなったと。私にも妹がいるのでとても他人事に思えなくて、妹さんの特徴を聞き、その娘を茂みに隠れさせて探しに行ったんです」
「妹さんは見つかったの?」
「…戦場の端の方で背中を斬られていて、死んでいました。でも、そのままに戦場に残していくのも可哀そうで、血塗れの妹さんを抱えて戻ったんです」
「そっか」
「その娘は妹さんの亡骸を見るなり、また泣き崩れてしまって。最後は妹さんを抱きかかえ、虚ろな目で家に帰っていきました。私はその姿を見送ることしかできなかった」
「辛かったね」
「妹さんを抱えていた私の手はその血で真っ赤に染まっていて、途中にあった川で洗っても洗っても私の目には全然血が落ちたように見えなくて」
「それで僕のところに来たんだね」
「伊作先輩に会ったらきっと大丈夫、笑顔で笑えるって思ったのに、私は、くのたまなのに、血が、死が怖くなって…」
「ナマエ」
障子を開けた伊作は膝を抱えて震えていたナマエを抱きしめた。
「大丈夫。もうナマエの手には血は残ってないよ」
「…伊作先輩」
「それにナマエの優しさのおかげで、妹さんは誰も知らない場所じゃなくて家族のもとに帰れたんだ。きっと家族が弔ってくれているさ」
「…うん」
「優しいくのたまなナマエが僕は好きだよ。だからナマエが辛いことは何でも話して。僕も一緒に抱えてあげるから」
伊作はナマエを抱きしめる手を離し、ナマエの両手の指を絡めるように握った。
「手、冷たくなってるじゃないか」
「伊作先輩の手は、とても温かい、です」
「さぁ、中に入ろう。温かいお茶も入れてあげる」
ナマエが頷くと伊作は手を引いて保健室に入った。