そこにいるかはわからないが、とりあえず八左ヱ門の部屋に寄っていこうと忍たま長屋の外廊下をふらふら歩いていると、曲がり角から猛スピードで飛び出してきた物体に正面衝突し、私はあえなく二部屋分ほどふっ飛ばされた。 

「ん?なんか当たったか?」

『なんか』じゃない、こちとらか弱い乙女だぞ。前を見て歩いていなかった私も悪いけれど、廊下を爆速で走るなんてとんでもない馬鹿野郎だ、文句の一つや二つ言ってやろうと床板に叩きつけられた身体を起こし、顔を上げて声の主を睨みつける。

「あれ、名前じゃん」
「大変申し訳ございませんでした」

私に体当たりしてきた私服の忍たま──七松先輩の丸っこい目が視界に入った瞬間、私はそのまま即座に土下座の体勢に入った。
嫌なことはすぐに忘れる鳥頭の私でも、過去に植え付けられた数々の心的外傷により、脳みそにこの人にだけは絶対に逆らっちゃだめだと刻みこまれている。
人ひとりぶっとばしておいて七松先輩には何のダメージもなかったようで、気にするな!と言って笑った。少しはこっちを気にしてほしい。なぜ私が許しを乞うているんだ。

「いま学園に着いたばかりだから、興奮してつい走ってしまった!」
「相変わらず単細胞ですね」

思ったことをそのまま口に出してしまう私もたいがい単細胞だ。
やべっと慌てて口元を抑えるが、七松先輩は、ん?とにこやかに笑って首をかしげた。先輩の笑顔には嫌な思い出しかない私は一気に全身から血の気が引くのを感じ、身に迫る危険を察知しながら逃げの構えをとる。
運が良くても人間おてだま、運が悪ければ人間砲丸投げの刑だ。

「おっ、冬休みの間に名前は随分と偉くなったみたいだなあ?」
「ひぇっ、おゆ、おゆるしを」
「はは、逃げるな逃げるな!追いかけたくなるだろう!」

逃走しようと私が左足を踏み出すと同時に右の二の腕をぎりりと掴まれ、至極楽しそうに微笑みかけられる。獲物を目がけて飛ぶ鷹のような鋭い目に捉えられ、あっこれ死んだなと走馬灯の上映を開始しようとした瞬間だった。
誰かの影が私に被さり視界が暗くなったので見上げると、用具箱を肩に担いだ食満先輩が呆れた顔をして立っている。

「小平太、あんまりいじめてやんなよ」
「わはは、名前を見るとついな」

以前は私に過保護だった雷蔵も最近はめっきり放任主義になってしまったので、食満先輩は無条件に私を甘やかしてくれる学園内で唯一の存在だ。
つまり食満先輩が卒業してしまったら、町へ行ったお土産に大福や簪を買ってきてくれる人もいなくなってしまうわけで、それは少し寂しいかもしれない。
そんなことを考えてしまうのも、先ほどシナ先生に来年度のことを言われた影響だろうか。七松先輩に関してはなんの問題もないので、むしろ前倒しでもいいからはやく卒業してほしい。

「いじめてほしそうな顔をしているだろ?」
「三郎みたいなこと言わないでください!」

食満先輩の登場によって力の緩まった七松先輩の手からするっと抜け出しながら、私は小声で恨み言を言う。
三郎はまだ小さな悪戯に留まっているからいいけれど、七松先輩の場合生命の危機を感じるので洒落にならないのだ。それとも三郎が最高学年になって調子に乗ってしまったら先輩のようになるのだろうか。
そう思うと、三郎が最も苦手とするこの先輩の卒業も惜しい気がしてきた。必要悪というやつである。

「鉢屋はお前が大好きだからなぁ」
「そんなまさか。私は三郎のことどっちかっていうと嫌いですけどね」

七松先輩がとんでもないことを言ってきたので否定しておいた。
というか、大好きだったら私が寝ている部屋に大量の蛙を放したり、昨年度運悪くペアになった房中術の実習のときに私の顔に変装したりしないだろう。死ぬほど嫌だった。

「鉢屋といやぁ、さっき竹谷と鍋抱えて運動場のほうに歩いてったぞ」
「え!」

先輩に捕まっているうちに、どうやら入れ違いになってしまったみたいだ。教えてくれた食満先輩にお礼を言うと、これ以上面倒くさいことにならないうちにその場から立ち去ることにする。

「なんだもう行くのか?久しぶりに鍛錬に付き合わせようと思ったのに」
「ひ、勘弁してください」

恐ろしいお言葉を背中に受けながら、結局また逃げるように退散する。本気で追いかけられたら敵いっこないのだが、今日のところは素直に解放してくれたようだ。走って転ぶなよ〜、と食満先輩がまるで下級生に言うみたいに声をかけてきたが、面倒くさいので無視しておいた。
四年生たちにとって私がいつまでも二年生であるように、六年生たちの中で私はいつまでも一年生なのかもしれない。
それはさすがに失礼すぎるんじゃないか、と、一年は組のよい子たちを思い出しながら思った。





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