辛いことや苦しいことの無い状態を“幸せ”と呼ぶのかは分からないが、きっとこの先何の苦難もない人生が待っているにもかかわらず、まるで針のむしろに立たされているような気分だった。
 式場の控室に据え付けられた大きな姿見に映る自分の姿は、まさに“幸せ”という言葉がこれ以上無いほど相応しい出で立ちだ。それなのに鏡の中の自分は決死の覚悟を決めた兵士のように固く、青ざめていた。無意識に力を込めて握りしめていたらしく、ウェディングブーケを持つ手は震えている。
 ――自己責任。今日までずっと言い聞かせてきた呪文を反芻する。全て自分で選んだ道だった。のらりくらり、楽しいことを好きなだけ楽しんで生きてきた。このままではろくな人生にならないだろうと早々に私を見限った両親が、それでも可愛い娘のために必死で見繕ったお見合いの相手は良家の息子。二回り以上の年の差があり、もはや親の年齢に近いほどの年上ではあるが、嫁いでしまえばそれなりに裕福な暮らしが約束されていた。
 きっと両親は私を幸せにしたかったのだと思う。だから私がまだ若くて綺麗なうちに、一生を不自由無く過ごせる鳥籠に入れてくれたのだ。私には断る理由も、二人なりの愛を無下にする度胸も無かった。

「名前、似合ってるよ」

 聞き慣れた声が入り口から聞こえる。振り向くと、そこには長いドレッドを高い位置で括ったダークスーツ姿の勘右衛門が立っていた。基本的に式の前に出席者と会うことは無いため、室内に控えていた女性スタッフが不思議そうな顔をして勘右衛門と私を交互に見た。

「勘ちゃん! 来てくれてありがとう」
「どういたしまして」
「ここ関係者しか入れないのに、どうやって来たの?」
「うん。名前の花嫁姿、独占して見ておこうと思ってさあ」

 すたすたとこちらに歩いてきた勘右衛門はサングラスをしたまま口角を上げてにっこりと笑う。質問への回答にはなっていないのだが、学生時代からの付き合いにより、彼の自由な振る舞いには慣れている。勘右衛門だからまあ仕方ないか、と私も笑い返した。

「なにそれ、変な顔。笑ってるつもり?」
「えっ、酷いなあ」
「なんでこんなお目出度い日に、この世の終わりみたいな顔してんの?」

 いつもの軽口と同じトーンで発せられた言葉に、心臓をぐっと握り潰されたような感覚が襲った。見透かされている、と焦り固まる私に彼の手が伸びる。
 何となく、この手が私に触れれば確実に何かが終わり、そして始まる予感がした。一瞬の筈なのに、彼の手はスロー再生のようにゆっくりと私へ近づいてくる。その手を振り払い、拒絶することは容易かった。そして恐らくそれが正しいと思えた。鳥籠に留まることが幸せなのだと、世間もそう判断するだろう。――けれど私は。私にとっての幸せは。

「そのドレス、三郎が仕立てただけあって本当に似合ってる」

 勘右衛門の両手が純白の布に包まれた私の腰を掴み、子どもに高い高いをするみたいに私の身体を空中へ持ち上げる。

「でも好きでもないオッサンとバージンロードを歩くのは、名前には似合わないよね」

 訳が分からずに言葉を失う私の耳元でそう呟くと、勘右衛門はそのまま私を米俵のように、肩の上に担ぎ上げてしまった。

「勘ちゃん、何するつもり」
「やっぱりハネムーンはベネチアがいいよね。名前も行きたがってたし」

 また答えになっていない。私たちを見守っていた式場スタッフがぽかんとしているうちに勘右衛門は私を担いだまま歩き始め、控室を出てからはいきなり全速力で走り始めた。ウェディングドレス姿の花嫁を肩に乗せてエントランスへ走る謎の男に式場はあっという間に騒然となる。通路には身支度の済んだらしい婚約者が呆然と立っていて、タキシードを着た中年男性が呆気にとられている様はなんだか間抜けだなと可笑しくなってしまった。
 振り落とされないように勘右衛門にしがみついている私を誰かが指差し、「花嫁が攫われる!捕まえろ!」だなんてドラマみたいなセリフを叫ぶ。全く同じことを思ったらしく「ドラマみたいだね」と揶揄して口笛を吹く勘右衛門に、とんでもないことをしでかしてくれたなあと呆れた。 追いかけてくるスタッフや相手の親戚、親御さんを躱しエントランスをくぐり抜ける時に見えた外の景色は、大した照度の差なんて無い筈なのにとても眩しく感じた。

 式場を出て、私を担いだ勘右衛門が階段を駆け降りていると、プァーという甲高いクラクションを鳴り響かせながら目の前に外国製の白いオープンカーが停まる。運転席にはサングラスをかけて真っ白いタキシードを着た三郎が座っていた。

「俺もタキシード着たかったんだけどさあ、さすがに入り口で止められると思って」

 呑気なことを言いながら助手席のドアを開けると、勘右衛門は私を横抱きの状態にして助手席に座る。勘右衛門が私を連れ出した時からきっと三郎と合流するんだろうとは予想していたけれど、あまりにも派手な登場に流石に空いた口が塞がらなくなる。サングラスを外した三郎は私を見ると手を伸ばし、「よっ、アホ面」と鼻で笑いながら、ここまでの大立ち回りでセットが乱れていたらしい私の前髪を整えるように額を撫でた。
 言葉とは裏腹に愛おしいものを慈しむようなその仕草に、鼻の奥がツンとなる。自分がとんでもなく愚かで、馬鹿な選択をしていたということにようやく気が付いた。彼らはいつも、私が幸せになれる方向へ手を引いてくれていたのに。

「……折角作ってくれたのに、自分で台無しにしてるじゃん」
「俺が作ったドレスを着て、他の男と結婚できると思うなよ」
「てか、何その格好。私、三郎と結婚するの?」
「半分正解。勘右衛門もお前の旦那様だぞ」
「いつから日本は多夫一妻制になったの」
「あはは、あのスケベオヤジの何倍も幸せにしてあげるよ」
「俺もあの小太り爺さんの腑抜けヅラ、拝みたかった」

 見合いで用意されたとはいえ仮にも人の結婚相手を散々に貶すと、三郎は追いかけてくる人々を煽るように再び高らかにクラクションを鳴らして車を発進させた。ガラガラガラガラと、車にくくりつけてある大量の空き缶がアスファルトの道路で飛び跳ねては音を出す。まるで本当にハネムーンに行くみたいだ、と思いながら、勘右衛門の膝を降りて二人の間に収まった。
 ふと握りしめたままだったウェディングブーケの存在を思い出し、万歳をして放り投げると、風圧でバラバラになり白い花弁を散らせながら飛んでいった。人生最大の親不孝をしたにも拘わらず、散り散りになっていく花びらに清々しさが込みあがった。

「ねえ、どこ行くの?」
「羽田」
「言ったじゃん、ハネムーンはイタリアだって」
「っ、は、あはは!」

 まさか本気で言っているとは思ってもみなかったので、あまりにも向こう見ずで非現実的な展開に大声で笑ってしまう。
 いくら馬鹿げたプランでも、二人とならばドレスを着たままでだって行けるような気がするから不思議だ。小学生の時、夏休みの初日に感じたような無敵感が身体中に漲る。

「名前、結婚しよう」

 私が一頻り笑い終わると、悪戯が成功したときのようなしたり顔で笑う三郎にそう言われ、勘右衛門からは頬にキスをされ、私はこの先本当にこの二人と生きていくんだなと感じた。未だ学生気分が抜けきらない能天気な私たちはこうして三人揃って社会からドロップアウトしたけれど、世界の果てで野垂れ死ぬとしても構わないとすら思えたのだ。きっといま私は幸せである。




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