「あんだの知り合いだが?」

 年老いた男の問いに、私は頷く。貧しい身なりをしたその男は、燃え尽きた城跡に何か金目の物が残ってやしないかと物色に来た農民の一人であった。

「忍者の死体は、骨まで焼ぐつっから。土ん中にはいねえげども、殿様がお立てになっだがら、手入れはきちっとされとっだよ」

 今は煤けぢまったがなあ、と男は続け、灰を被って薄汚れた墓標と、未だ煙が燻る城の焼け跡を見てどこか寂しそうに笑う。この乱世には珍しく、領民からの評判が良い城主だった。それでも、ただの忍が城主に墓を立ててもらうだなんて話は聞いたことがない。木標に記された“鉢屋三郎”とはさぞや腕の立つ戦忍で、城主や要人からの人望を得ていたのだろう。死後自分の名が世に残ることなど、影に生きる私たちにとっては無縁であるべきだと思っていた。

「この墓ぁできでがら、戦は負け続きよ」

 独り言のように呟き去っていく男に会釈をして、私はその小さな背中をしばらく眺めていた。
 数日前に陥落したこの地へ赴き領地の状態を偵察することが、私に課せられた忍務である。命令のもと訪れたこの地は、主の死を悼むかのように静まり返っていた。

 鉢屋三郎という名前を聞いたとき、何かが引っ掛かるような違和感を感じた。その違和感は頭の中を充満していき、私をどこか懐かしい気持ちにさせる。そしてそれは寂しさや切なさといった、久しく感じていなかった哀愁を呼び起こした。そこまで思考して私は、この引っ掛かりはきっと、あの箱庭の中で紡がれた記憶の欠片なのだろうと断定した。
 幼少期を過ごしたあの学園を思い出すとき、私はいつも物悲しさと小さな幸福感を抱くのだ。あの頃の自分は確かに幸せだった。大人たちに守られながら、同じ年頃の同志と笑い合うことができた。時が経ち、記憶は薄れて酷く朧気になったけれど、私はあの頃の温かな思い出を胸の奥の誰も手の届かない場所へ、誰からも汚されないよう大切に仕舞ってある。あの六年間の幸せを芯にして、私は自我を保ち、背後から迫る死に怯えながら生きているのだ。

 すっかり曖昧になった記憶の断片から、恐らく私と同級であった彼の姿を手繰り寄せる。顔すら明確に思い出せないが、私と彼は決して関わりが無かったわけではなく、頻繁に話をしていたし、二人で町へと出掛けたこともあった気がする。確かに気の置けない仲であったと思うが、彼の名を聞いた時点でそれを思い出せなかったあたり、私の芯はそこに存在していることに意義があり、中身は既にもぬけなのだということを実感した。
 学園卒業と同時に城仕えの忍となり、およそ十年の間多くの戦地を駆け回り、必死で生を手繰り寄せているうちに、あの頃の記憶は抜け落ちてしまった。その中には忘れてはいけない、何か大事なことも含まれていたのではないか、と虚しい気持ちがこみ上げる。“鉢屋三郎”に関する胸の引っ掛かりを、明らかにする術を持たないことが歯痒かった。彼が級友であったこと以上は、今の私には分からない。試しに呼んでみれば思い出すだろうか、と私は口を開き、彼の名を呟いた。

「鉢屋三郎」
「死人に呼び掛けるとは、面白いことをするな」

 気配無く向けられた声に驚き振り返ると、そこには若い男が立っていた。蓬色の着物を着て、曇りにも関わらず大きな編笠を頭に付けている。そこから僅かに覗く顎は細く尖っており、口元は愉快そうに笑っていた。

「文字通り死人に口無し、元より返事をするための身体は土の中にありゃしない。墓標に魂が宿っていて、尚且つお前が霊媒師か何かの類であると言うならば話は別だが」

 べらべらとよく回る舌で物事を大袈裟に言ってみせ、いかにも愉快痛快であるというような男の口調に強い既視感を感じて、私は口を挟むことなく男の話を聞いていた。それは今しがた自分が発した名前と合わせて私の脳をぐるりと駆け巡る。鉢屋三郎の声と人となりを、幽かに思い出した瞬間であった。

「しかし真に残念だが、そこには魂だって残っちゃいない」
「どういうことだ」
「おや、事実を言っただけさ。いくら呼んだって時間と体力の無駄になるだけだ」

 揶揄うような言い草に私は堪らず男の笠をぐいと引っ張り上げ、翳って見えなかった顔を露わにした。重たげな瞼が被さった切れ長の目を見ると、男は薄い唇を釣り上げて再び笑う。

「それが本当の顔なのか」
「十数年ぶりに会う友にまず言う台詞がそれか、名字名前」
「鉢屋三郎」

 今度は墓石ではなく男に向かってその名前を呼ぶと、男は苦笑して「死人の名で私を呼ぶのはよせよ」と続ける。“昔”から、顔も名前も何が真実か分からない奴だった。今の姿も偽りだと言われればそうかと納得するし、これが素顔だと言われても得心が行く程には違和感の無い風貌だった。

「無意味な墓だよ、それは」
「そうらしい。酷い話だ、城を裏切ったのか」

 私が首を傾げながら彼に問うと、何が可笑しいのか再び愉快そうに笑いだす。ああ鉢屋三郎とはこんな調子の奴だったな、と私は自分の中に眠る十余年前の記憶が鮮明になっていくのを感じた。

「恐ろしいことを言うな。私は元から別の城へ仕えていたのさ。ここへは長年、間諜として潜り込んでいただけだ」

 その潜入先で功を成し、城主の信頼を得て墓まで建てられる派手派手しさに呆れていると、まぁその城も今朝抜けてきたけれど、と鉢屋三郎はさらりと言う。

「丁度いい。お前が今どこへ仕えているかは知らないが、この無職忍者のために口利きを頼めやしないか?」
「断る。お前のように容易く城を抜ける男が信用できるか」
「まあ待て。私は腕が立つし、記憶力には自信があるぞ。例えば私は、お前を覚えていた」

 彼のことをすっかり忘れていた私は言い返す言葉が見つからずに口を噤む。それに、と鉢屋三郎が続けたので黙ってそれを聞いてやった。

「ここでお前と私が再会したのは、完全なる運命だと思わないか」

 運命だなんて言葉を軽々しく口にするものじゃない、と溜め息をつきながらも、私は彼を邪険には扱えないでいた。彼にこうして出会えたことで、色褪せていくばかりだった思い出に囚われていた私の、止まっていた時が動き出した気がしたのだ。




. top