ここが終わりのない地獄だということに、わたしはきっと最初から気づいていたのだ。


 玄関のドアを開くとわたしの帰りを待ち構えていたかのようにそこに突っ立っていた雷蔵にぎょっとする間もなく手を引かれ、気がつけば彼の腕の中に引き込まれていた。
一瞬だけ見えた彼の表情がとてもご機嫌だったので、一瞬にして嫌悪、嫉妬、劣等感などの負の感情がわたしの全身に駆け巡る。
雷蔵の喜怒哀楽を左右できる存在なんて昔からあの男しかいないのだ、忌々しいことに。

「ふふ、三郎の匂いがするね」

三郎は人一倍嗅覚が敏感なために、香水などの香りを付けることを極端に嫌う。
それなのに彼の匂いを感じ取った雷蔵に呆れを通り越して気味悪さすら感じ、けれども単純な身体はこの後の展開を予想して火照り始めていく。
わたしはもう、この異常な関係と行為に慣れてしまっていた。
たった今三郎に抱かれてきたお陰で今から雷蔵に抱いてもらえる幸せに、なんの疑問だって感じちゃいない。
雷蔵の優しいキスを受け入れ、無抵抗のまま床に組み敷かれながら、ほんの数分前から脳裏に焼き付いたままだった三郎の惨めな泣き顔がフラッシュバックした。



(morphine)






 始まりはいつだったのだろうか。
まだ男を知らず、恋に夢を見る少女だったわたしの心を奪ったのは、いつも騒がしい仲間に囲まれてひとりだけ静かに笑っていて、決断を迫られると困ったように柔らかく苦笑する、そんな少年だった。
いわゆる校内カーストの上位にいる彼と、高校に入っても地味で垢抜けないわたし。
不毛な恋も同然で、そんなことは誰に言われるまでもなくわかっていた、わたしはただ彼の笑顔を遠くから見ているだけで満足だったのだ。
それなのに。

『名字さんって、僕のこと好きだよね』

あの日、廊下ですれ違いざまに彼に腕を掴まれてそう言い当てられた。
そのひとことは一時停止ボタンみたいに、その場にいた雷蔵以外の人間の世界を止めた。
わたしはどれくらい間抜けな顔をしていたのだろう、それが雷蔵と初めて交わす言葉だったというのに、口から出るのは『あ』や『え』なんかの意味を持たない音ばかりだった。
雷蔵の友人たちが驚いて大声を上げ、一緒にいたわたしの友人もきゃあきゃあを反応する中、三郎だけは顔をまっしろにして、死刑宣告を受けたような絶望の表情をしていた。
それからは息をする間もないくらいの急展開だった。
付き合うだとか付き合わないだとか、そんな言葉さえないまま、いつの間にかわたしは雷蔵のものになっていた。
深い海に溺れたときに必死でもがいて酸素を求めるように、わたしはそのポジションを決して離さまいとしがみついた。
愛しい彼のお願いならばわたしは信者のようになんだって聞いてみせたし、それが幸せなのだと信じて疑わなかった。
けれど、結局は底に足が付くことも、岸にたどり着くこともできなかった。
雷蔵はわたしを恋人にしてくれたけれど、始めからわたしを愛してはいなかったのだ。



(溺れる女)






 鉢屋三郎という人間が雷蔵の思考のすべてを満たしていることに気が付いたのは、雷蔵との交際が始まってすぐのことだった。
気付いたというよりは故意に気付かされたのだろう、雷蔵はわざと自分の三郎への異常な執着をわたしに露にした。
三郎は、雷蔵の仲間内では最も雷蔵に近しい存在で、雷蔵への友愛を越える感情を隠すことなく示していた。
その風采も雷蔵を真似ていたので、わたしにとって三郎は雷蔵の成り損ないであり、嫌悪の対象ですらあった。
そして三郎も同じように、突然自分から雷蔵の隣という居場所を奪った私を心の底から憎んでいるようだった。

『人に本気の殺意を抱くのは初めてだ』

わたしの顔も見ずにそう吐き捨てた当時の三郎は、虚勢の塊だった。
「雷蔵に愛されているわたしが羨ましいんでしょう」、そうわたしが口にした途端にその場で泣き崩れてしまったぐらいには。
だからわたしは鼻で笑ってやったのだ。
三郎の嫉妬が、あまりにも的外れで無意味なものであると知っていたからだ。
彼は知らないのだ、自分こそが雷蔵に、最も愛されている存在だということを。



(手中の愛を強請る男)






 高校を卒業してから、雷蔵は自ら三郎との関わりを絶った。
進学先は伏せ、連絡先も所在も変え、可愛い三郎から自分という何よりも大切な存在を奪ったのだ。
偶然にも――これは雷蔵にとっては偶然ではないのかもしれないが――、三郎と同じ大学、同じ学部に入学したわたしは三郎が壊れていくさまを間近で見ることができた。
わたしという存在が近くにいたことが一番のストレスだったのかもしれないが、目に見えてはっきりとやつれていく三郎に優越感を抱いたのは始めのうちだけだった。
わたしを介せば雷蔵とは簡単に繋がることができのに、人一倍プライドの高い三郎はそれを許さなかった。
雷蔵が一体何を考えているのか、愚鈍なわたしには理解できない一方で、講義に顔を出すことさえ稀となった三郎に対してわたしは罪悪感を募らせていく。
骨が浮いた身体や色濃くなっていく目の下の薄黒い隈を哀れみ、同情すらしたけれど、わたしには雷蔵を譲る気持ちはこれっぽっちもなかったのだから、我ながらなんて高慢で偽善に満ちた心情だったのだろうか。

『三郎のこと、慰めてあげてね』

三郎に対しての罪の意識がわたしの心を押し潰し始めた頃、雷蔵はとても楽しくて美しい世界の話をするかのような顔をしてわたしに言った。
女が男を慰める方法だなんて一つしか知らず呆気にとられるわたしに雷蔵は、お願いだよ、と可愛く微笑んだ。
薄々気付いていたことではあったけれど、わたしは雷蔵の、三郎を中心とした世界を、彼の好きなように回していくための存在にすぎないのだ。
そして手首を掴まれたあの日から、わたしには、彼に逆らうという選択肢は与えられていなかったのだ。



(駒を動かす男)






 つつけば一瞬で崩れてしまうくらいに脆い虚勢を張る三郎につけ入るのは簡単なことだった。

『……雷蔵の匂いがする』

世界で一番に憎い存在であるわたしを、三郎は幼子が母にすがりつくように激しく求めた。
三郎にとってわたしは雷蔵と繋がることのできる唯一の鍵であり、わたしを共有することで三郎は雷蔵の存在を感じているのだ。
きっと三郎は、移り香のようにわたしに残された雷蔵の面影を必死に手繰り寄せているんだろう。
粉々に割れた硝子の欠片を拾い集めるようなそのさまがなんとも憐れで、滑稽で、哀しくて、そしてそれは、恋人が最も愛している人間と身体を重ねているわたしの姿でもあった。

『名前、』

愛のない歪な行為を何度か重ねていくうちに、三郎はわたしをそう呼ぶようになった。
わたしが雷蔵のいる家へ帰ろうと三郎の部屋を出るときには、必ず引き留めるようにもなった。
三郎はきっと、無意識のうちに雷蔵への執着をわたしへの依存へとすり替えてしまったのだ。
そんな三郎を可愛いと思ってしまうのはきっと無意識に刺激されたわたしの母性のせいで、そこに愛は存在しない。
わたしにとって三郎が世界一恨めしく、憎らしい人間なことにはなんら変わりないのだ。



(alone)






「三郎はどうだった?」

雷蔵はわたしの首筋にキスをしながら、外の天気でも尋ねるかのようにわたしにそう問う。

「相変わらず、死人みたいな顔してたよ」

ありのままを伝えると、雷蔵は嬉しそうに口の端をつり上げた。
そしてそのまま首筋に顔を埋めると、匂いを嗅ぐように息を吸う。
ああ雷蔵もわたしを通して三郎を感じているだけなのだ、とわたしは目を閉じた。
未だ雷蔵に恋をしているわたしは、一生彼から離れることのできないまま、三人きりの小さな世界の中でもがいていくのだろうか。
それこそが幸せなのだと、信じて疑わぬままに。


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