まだ幼かった自分にとって、三年という歳の違いは天と地ほどの差に思えた。
実際に背丈も知識も技術も、何もかもがかけ離れていたし、彼女は生徒ではあったが自分と同じ子どもではなく、どちらかといえば親や教師と同じ大人側にいる存在である気がしていた。

「先輩」

四年生への進級を間近に控えたあの日──あの人にとっては学園最後の日、小さな荷物ひとつを背負って学園の門をくぐろうとしていた後ろ姿を呼び止めた。
ぱっと振り向いた顔はすぐに、いつもの優しい笑みに変わる。万物を慈しむようなこの笑顔が好きだった。後輩には厳しい表情を見せたことのない人だった。

「どうしたの、庄ちゃん」

伝えたいことは山のようにあった。
三年間抱いていた彼女への尊敬、憧憬、そして恋慕の念、それらをすべて伝えたかった。
この人はきっと拒むことなく受け入れる。そして去り行く自分への想いを断たせるように、ありがとうと言って優しく笑うだろう。
けれど幼稚故の傲慢さを持っていた自分は、それでは不満だった。想いを伝えたところで、そのまま去られるわけにはいかなかった。この気持ちの正体を明確に言い表すことはできなかったが、初恋と名づけるには十分だということは理解していた。
いまの自分は彼女にとって、庇護の対象である。いくら強請ったところで彼女をこの手に収めることはできないとわかっていた。
自分は小さく惰弱で、無知であり、身勝手な欲を彼女に伝える資格を持っていなかった。
だからこそ、自分がその資格を持つに値するまで待っていてくれという想いをこめて、ひとつ約束を取り付けたのだった。

「先輩、僕が卒業したら、会いに行ってもいいですか」

彼女は面食らった様子だったが、いつになく真剣な自分の顔を見るとしっかりと頷いた。断れない彼女の性格を利用した、小狡くて図太いやり方という自覚はあった。
そして彼女はこの学園から去った。校門を出て山を下っていく背中を、見えなくなるまで目に焼き付けていた。
後の数年間、自分は兎に角鍛錬を重ねた。同級生は勿論、先輩が相手だろうと劣ることのないよう、ひたすらに勉学に励んだ。恥じることなく彼女に再会できるように、多くの経験と実績を求め、自ら進んで危険な忍務を引き受けもした。
けれども終ぞ、約束が果たされることはなかった。彼女が就職先の城の忍務中に命を落としたと聞いたのは、自分が卒業を控えた、六年生の冬のことだった。





「庄ちゃん」

名前を呼ばれた方を見ると、教室前方の入口で名前が手を振っていた。
相手は先輩なので手を振り返すわけにもいかず、どうしたものかと迷っているとその間にも彼女は笑顔でこちらに向かってくる。書き物をしていた手を休めて会釈をした。

「こんにちは。こっちにいらしてたんですか」
「こんにちは。集中していたみたいだから、声をかけようか迷ったんだけど」

迷ったと言いつつも結果声をかけたことが照れくさいのか、えへへと笑う左胸には、この学園の高等部の校章が光る。名前は高等部三年の生徒だが、こうしてよく隣接している中等部の校舎に訪れる。

「今日も二人しかいないの?」
「いえ、今日は彦四郎が休みなので僕だけです」
「それは大変」

各クラスの級長で構成されているこの委員会は、部活や予備校などを理由に活動日を欠席する生徒がほとんどだった。
別に問題は無いのだが、今のような年度末の忙しい時期は何かと仕事が増えるので、出席率の高い彦四郎と自分の二人だけでは手が回らなくなる。
三年前に中等部を卒業したOGである名前は、自分とはちょうど所属時期は被らなかったのだが、後輩の人手不足を案じてかよくここへ手伝いに来ていた。

「何書いてるの?」
「答辞の原稿です」
「ははあ、庄ちゃんが読むんだね」

手渡した原稿用紙をひょいと手に取ると、目を通しながらしみじみといった風に言う。
何かを読むときに顔の左端の髪を耳にかけるのは、一年生のときに見つけた名前の癖だった。

「庄ちゃんももう卒業だね」
「先輩もでしょう」

そう言うと名前はそうだねと笑った。そして原稿用紙を机の上に戻すと、その隣の席に腰をおろす。

「何か手伝えることある?」
「あ、はい。えっと…」

最初のうちこそ卒業した先輩に手伝わせるなんてと恐縮していたのだが、この三年ですっかりと慣れてしまった。
期限の近い業務を口頭で伝えながら鞄や机から書類の束を取り出すと、隣に座る名前に渡す。ふんふんと返事をして、少なくはないそれを受け取ると手慣れた様子ですぐに作業に取りかかった。
再び髪を耳にかける名前の横顔を無意識に見つめながら、そういえば、今年度の委員会はこれが最後になることに気がつく。
自分が中等部に入学してから卒業するまでの三年間、名前は委員会に割り当てられたこの教室を訪れていた。
毎回ではないが月に一度は必ずやって来ていたので、彦四郎を除く他の委員会メンバーよりも頻繁に会っていたし、それなりに言葉も交わしている。
いくらOGだからといって、関わりのない三つ下の代まで面倒を見ているこの先輩がかつては不思議で堪らなかったが、今ではその違和感も気にならなくなっていた。
部活動に所属していない自分にとって、先輩と呼べる存在は名前ひとりだけだった。

『黒木庄左ヱ門です』

初対面の名前にそう自己紹介をしたら、微笑みなのか苦笑いなのかわからない笑顔を向けられたのが印象的だった。
その後委員会の仕事を教わったり、考査前に勉強をみてもらったり、下校時に彦四郎と一緒に飲み物を奢ってもらったり、と、共に時間を過ごす中で名前のいろいろな表情を見てきたが、初めて会ったときの、複雑な何かを孕んだ笑顔はずっと心に残っていた。
そして先ほど、もう卒業だねと言って笑った名前はあのときと同じ笑顔をしていた。

「先輩」

本日こなさなければいけないすべての仕事を終えて隣を見ると、名前は作業を終えた書類の山の横で頭を伏して寝ていた。
すうすうと寝息をたてる顔は昼寝をしている子どものようで、とてももうすぐ大学生になる年齢には見えず思わず笑ってしまう。
以前並んで廊下を歩いたとき、庄ちゃんは背が高いし顔つきも大人びてるから、私のほうが年下に見えるんだろうね、と嘆かれたことを思い出す。

「名字先輩、」
「んー……あ、ごめん」
「いえ。僕も終わりました」
「そう、お疲れさま」

目を擦りながら、名前はにこりと笑う。万物を慈しむような、この笑顔を見るとなぜか心が穏やかになる。後輩には厳しい表情を見せたことのない人だった。
それから教室の壁の時計を見て、完全下校時刻までまだ時間があることを知ると、コーヒーでも飲んで帰る?と鞄から出した財布を持って立ち上がった。
中庭にある自販機で缶コーヒーを奢ってもらい、ベンチに座って飲みながら、こうして一緒に過ごすのも最後だろうかと柄になく感傷的な気分になる。
名前はそれを知ってか知らずか、いつも通り缶を両手で包み、息を吹いて熱を冷ましながらちびちびと飲んでいた。

「…あの、先輩。どうして三年間も来てくれてたんですか」
「そりゃあ、先輩がいない庄ちゃんと彦くんが心配だったからだよ」

庄ちゃん、嫌だった?と苦笑しながら聞かれ、慌てて首を振って否定する。
そういうことが言いたかったのではない。何故そこまで面倒を見てくれたのかが気になったのだ。

「あはは、よかった。……本当は、私のわがままなんだよね」
「わがまま?」

思いがけない返答に聞き返すと、名前はしばらく口を閉じたあと、ぽつりぽつりと話し始めた。

「私ね、昔…って言っても本当にすごく昔なんだけど、ある人と大事な約束をしたの。でも、それを破っちゃったんだ。そのせいで、その人の人生を台無しにしてしまったの。幸せになれる機会はいっぱいあったくせに、その人はいつもそれを手放していた。私は見守ることしかできなかったから、謝ることだってできなくて、……それは今でも、できなくて」

一見質問とは関係が無いような名前の話を、口を挟まずに黙って聞いた。
要領を得ない内容でもその表情は真剣で、冗談を言っているようにも、作り話をしているようにも見えなかった。

「君たちの仕事を手伝うと、罪滅ぼししてる気持ちになれるの。実際は全然できてないんだけどね。だから私のわがまま、自己満足」
「そこまで言うのに、どうして謝れないんですか?」
「ふふ、どうしてもかな。思い出されるのが怖いのかもね」

それっきり名前は何も言わなかった。遠い昔話のような話に、以前名前と彦四郎と自分の三人でした会話をふと思い出す。

『ええっ、先輩、彼氏いたことないんですか』

驚いてそう言ったのは彦四郎だったが、内心驚いていたのは自分も同じだった。
名前はきれいな顔をしているし、よく気が利いていて性格も明るいので、異性に限らず人に好かれているだろうと思っていた。

『ないよ』

肯定すると再び目を開いて驚く彦四郎を見て、名前はあははと笑う。

『私、生まれつき恋愛自粛中なんだよね』
『は?』
『なんていうか、人を好きになっちゃ、だめな人間なのよ』

あの言葉の意味の答え合わせが、いま行われているような気がした。
その昔約束を破ったという、誰かへの償いとして、名前は恋をすることを自ら禁じてきたのかもしれない。

「…どんな約束だったんですか?」
「ふふ、君には教えない!」

どこか懐かしむように、目を細めながらそう言うと、名前は空になった缶をゴミ箱に投げ入れながら立ち上がった。

「さて……じゃあね、庄ちゃん。私が知らなかった、君のこの三年間を一緒に過ごせて幸せだったよ」
「え、先輩、」
「君が憶えていなくてよかった」

何を言われているのかわからず、聞き返す自分の声も無視して名前は続ける。

「少し早いけど、『卒業おめでとう』。ずっと言いたかったの」

最後、きれいに微笑んでそう言うと、名前は背中を向けて歩き出した。
きっとこれは、本当に最後になるのだろう。この人はもう自分に会いに来ないという予感がした。
いますぐにこのベンチから立ち上がり、凛とした背中を止めなければ、二度と会うことはない。確証は無いがそうに違いないと思った。そのつもりで名前は、先ほどの話を自分に伝えたのだろう。
けれども自分には、名前を振り向かせる理由がなかった。自分たちは三年という少しの時間を共に過ごしただけの先輩と後輩で、それ以上の関係は何一つ持ち得なかったし、望んだこともなかった。

ただコーヒーの空き缶を握りしめ、君が憶えていなくてよかった、と言ったその言葉を頭の中で反芻しながら、遠ざかっていく背中を最後までぼうっと眺めていた。




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