「勘ちゃん、ママが熱出したから一限サボるって」
遅刻ギリギリのタイミングで2組の教室に入ってきた名前は俺の前の席に座ると、くるりと後ろを向いてそう言った。
勘右衛門は去年転校してきた時点から絵に描いたような自由人だが、今は寝起きの悪い名前を叩き起こして学校へ連れてくるという役目を負っているため、登校だけは真面目にしている。
そんな勘右衛門の自転車には名前に合わせた背もたれや足置きが取り付けられていて、最早荷台は名前の専用席と化していた。
「お前よく間に合ったな」
「だって三郎ひとりにしちゃ可哀想じゃん」
名前は当然のようにそう言ってから、あ、と声をあげる。
手間のかかる子どものような扱いをされてなんとなく腑に落ちないながらも、なんだよとその視線の先をたどると2組の英語教師が教室に入ってくるところだった。
「一限英語か!辞書借りてくる!」
言うが早いか名前は立ち上がって足早に教室を出ていく。教室の時計を見ると授業開始のチャイムまであと2分程度しか残っていない。
この教師は毎回一人一文ずつ指名して和訳させるやり方で授業をするので、予習などしているはずがない名前はいつもその場で辞書をひきながら答えている。いつもは勘右衛門に借りているが、今日はどうするつもりなのだろうか。
などと考えているうちに早くも教室に戻ってきた名前の手には、黒いケースの電子辞書があった。どう見ても男物のそれを見て思わず眉をひそめる。
「それ誰の」
「兵助くんのだよ」
「へいすけ?久々知兵助か?」
名前はそうだよ〜と歌うように返事をしながら、机の中から教科書を取り出す。
「お前あいつのこと、名字で呼んでなかったっけ」
「さっき借りるとき兵助でいいよって言われたの」
「はあ?」
思わず声をあげたところで始業のチャイムが鳴った。すぐに日直の号令がかかり、名前と俺の会話も中断される。
授業開始後すぐにいつもの惰眠スタイルに入る名前を見ながら、腹の中にもやもやとした負の感情が生まれていくのを感じた。
兵助はどういうつもりなんだ、名前に気でもあるのだろうか。いつも無表情で飄々としている兵助の顔を思い浮かべながら、先程から和訳をあてられているにも関わらず呑気に眠り続けている名前の椅子を軽く蹴った。
「勘ちゃんおはよう」
「名前のがお目覚めって感じだけどね」
いつの間にか登校していた勘右衛門が昼休みに2組へ顔を出すと、結局四時間ほどぶっ続けで寝ていた名前が目を覚ます。
昨夜は俺の家で夜通しゾンビ駆りをしていたので、その目の下には薄い隈ができていた。
「ママもう大丈夫なの?」
「うん。今日の仕事は休むように言っといた」
「そっかぁ。早く良くなるといいね」
名前の言うママとは勘右衛門の母親のことで、ちなみに俺の母親のことは名前で呼んでいる。どちらも名前のことを自分の娘同様に可愛がっており、それぞれが希望する呼び方を指定した結果こうなった。
名前は大きく口を開けて欠伸をしながら立ち上がる。購買へ行って適当にパンを買ってから東階段の踊り場で食べるのがいつもの流れなので、それに従い俺も財布をズボンのポケットに突っ込んで席を立ったところで、教室の後方から声が飛んできた。
「名字」
三人同時に顔を向けると、隣のクラスの久々知兵助が立っていた。今朝の名前とのやり取りを思い出して、一瞬顔が歪むのを自覚する。
「あれ、兵助くん」
兵助は名前の席までやってくると、机の上に出しっぱなしにしてあった自分の電子辞書を指差した。名前はその存在を忘れていたようでああっと声を上げる。
「午後の授業で使うから、これ返してもらってもいいか」
「いいよ。ありがとね」
名前が了承すると、なぜか兵助が悪いなと謝り辞書を手に取る。不意にその無表情と目が合って、相変わらず何考えてるかわからない顔だななんて思いながらも俺の表情は歪んだままだったらしい。兵助が不思議そうに首を傾げた。
「どうかしたか?」
「あれ、名前って兵助のこと名前で呼んでたっけ」
特に言いたいこともないので別にと返そうとすると、勘右衛門がいつもの、本心が読めないおどけた口調で口を挟む。
その問いに兵助はきょとんとし、俺を見てすぐに「ああ」と納得したように呟くと、
「名字が久々知じゃ呼びにくいって言うから、なら名前で呼べばって言っただけだよ」
わざとらしい説明口調に、面白くないと思っていたことがバレたような気がして言葉に詰まる。
「へえ。…だって、三郎」
「あいかわらず過保護なんだな」
兵助は苦笑しながらそう呟き、じゃあな、と教室を出ていった。
名前は話の流れがよく分かっていないようで、兵助に手を振ると早く購買行こうよ、と俺の制服の裾を取って急かす。
「過保護ってだけじゃないのにねえ」
廊下を歩きながら俺にしか聞こえない声量でそう言った勘右衛門の面白がるような言い方に、何がだよ、と惚けてみせる。勘右衛門にそんな誤魔化しが通じないことは分かっていた。
何か他のものが入り込むこと、友人という関係が崩れること。それを極端に恐れているくせして、名前に対しては友情の枠には収まらない感情を抱いている。その感情の名前はとっくに知っているが、口に出すことは愚か意識することも自制していた。言霊なんて信じちゃいないが、戻れなくなる気がするのだ。そんなことは誰も望んでいない。
「三郎、私特盛サンドイッチね」
「前もそう言って食べきれなかっただろ」
「今日はお腹空いてるから食べれる、気がする」
「残したら俺が食べてあげる」
また甘やかしやがって、と勘右衛門を睨むと、やった〜!と叫ぶ名前に背中から勢いよく抱きつかれてはいはいと笑っていた。一見なんでもないようで、その表情を名前にしか見せないことは知っている。
勘右衛門と目が合うと、一瞬にやりと笑ってから名前をくっつけたまま今しがた自分がされたように俺に向かって突進してきた。突然のことに成す術もなく衝撃を全身で受け止める。
「ばっかやろ!」
「いやぁ、めんどくさいこと考えてそうだったから」
「勘ちゃん思い付きで私を犠牲にするのやめてね」
その勢いで廊下の壁にふっとばされた名前が身体をさすりながら文句を言うと、悪びれる様子もなく勘右衛門がまた笑う。すべてを見透かされているようで、俺はそのしたり顔から顔を逸らした。
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