部屋に小さく柔らかくひびいていた鼻歌がぴたりと止んだ。耳を澄ませて聞いていたわけではなかったが、ふとそれが聞こえなくなったことを疑問に思い、ニールは眺めていた端末から視線を外す。先ほど一人でラウンジにきて、机の上に宿題を広げていた小さな少女が左右に首を振って、ううん、と唸っていた。
「フィム、どうかしたのか?」
「うーん……」
声をかけてやれば、フィムはぱっと表情を明るくして小走りにニールのもとへと駆けていく。
「あのね、フィムね、おかあさんにしゅくだいね、みてもらおーっておもって」
「ミネットに?」
「うん。クレアが、おかあさんここにいたっていってた」
そういえば、と真新しい記憶を掘り返す。つい数十分前のことだ。ニールがラウンジにやってきたとき、ミネットは確かにここにいた。が、フィムが来るより少し前に用事があったと言って去っていくのをニールは見ていたのだ。そのことを伝えてやると、少女はそっかあ、と少しばかり肩を落とした。
「ラウンジ、ちょっとだけおかあさんのにおいするの」
「お前はそんなこともわかるのか……」
「うん。おかあさんいいにおいだから」
すん、と鼻を鳴らして得意げにしているが、言っていることは少し野性的というか、動物的というか。いいや、フィムだからこその感性ということもあるのか。母親(厳密にはそれではないが)に対しての感覚が鋭いということだってあるのかもしれない。……。咄嗟に思考を巡らせてしまったが、それを考えてどうするのか。どうしようもない。ぱっぱ、と頭の中を払う。
「そういえば、ニールもたまにおかあさんのにおいがする」
「ッ?!」
体勢を崩したニールが手に持っていた端末を取り落とす。ガタン、と大きな音がしてフィムがびくりと肩を揺らした。とてもびっくりした顔をしているようだが、残念ながら、それよりも遥かにニールの方が驚いていた。喉の奥に呼吸をつまらせて、少し苦しい。
「っ、フィム、おまえなにをいって」
「ほんとだよ。ニールも、ユウゴもクレアも、おかあさんといっしょにいるから」
同列で挙げられた名前で幾分か冷静さを取り戻す。そうか、……そうか。いや、それにしたって、落ち着かない気持ちになることに変わりはなかった。
とんでもない感覚の精度だ。改めて、少女のその常人ならざる力を感じた気がする。いいや、こんなことで感じてどうするんだって話だが。
「おかあさんのにおいがすると、フィムはしあわせになるのです」
「そ、そうか……」
「せかいじゅうおかあさんのにおいでいっぱいになったら、しあわせだなー」
それは、ちょっと、あんまり想像できないが。純粋で無垢、だからこそ見える少女のその奇妙な世界に、ニールは何も言うことができなかった。
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