営業も終わってそろそろ戸締りでもしようかと入り口に近づいたときだった。
 あれ、もしかして。そう微かに感じた期待とも言える予感に、レーガは今まさに鍵をかけようとしていたその扉を開いた。

「あ……え、ええと、その。こ、こんばんは!」
「……こんばんは。まさか、本当にいるなんてな」

 どうしてここに。そんな疑問が浮かぶよりも先に、会えて嬉しいという気持ちが湧き上がってくる。仕事終わりの疲労感はレーガの身体に今もずしりと重たくのしかかってきているというのに、それすらも一瞬、忘れそうになっているくらいだ。
 浮ついている。そう自覚するレーガのその、苦味を含んだ笑みを見たミノリは頭の上に疑問符を浮かべたような表情。小さく首を傾いで、どうやら先ほどのレーガの言葉の意味を考えているらしい……のだが、それらしい答えは出なかったようだ。間もなく思案を止めたミノリが、あのね、と言葉を紡ぎ出す。

「あの……迷惑じゃなかったら、なんだけど。ちょっと散歩に付き合って欲しいなって思って来たの。時間、ある、かな?」



 雪が溶けたとはいえ、夜はやはり少し肌寒かった。
 透き通った空気のずっと向こうではきらきらと星が瞬いていて、傍を流れる川はさらさらと静かに流れていて。昼間の和やかな賑わいとはまた違った雰囲気を作り上げている。
 月はぼんやりとした柔らかな光を放ち、彼女が闇の中へ消えてしまわないように、とその姿を景色から切り離す。ふらふらと揺れるその手を掴もうかと手を伸ばしたけれど、もう少しだけ、このままの彼女を見ていたいような気もして、レーガはその手をそっと下ろした。

「さすがに明かりがないと暗いねえ」
「そうだな……転ばないように気をつけろよ?」
「うん。怪我なんてしたら、明日のお仕事が大変だもんね」

 そういう意味合いではなかったのだが、気をつけてくれるというのならば細かいことなど気にするまい。
 こっちこっち、と手招く彼女についていき、桟橋に腰掛ける。足を下ろすと、ギリギリのところで水にはつかなかった。良かった、濡れるとさすがに、冷たかっただろうから。

「しかし、こうして見ると結構星、たくさん見えるんだな」
「そうだねえ……ここに来てびっくりしたんだよ。すっごくたくさん、星が見えて」
「やっぱり違うのか? ここと、元々住んでたとこ」

 そりゃあもう。とミノリが頷く。特に彼女の住んでいる場所は町よりも更に高い場所にあるせいか、よく見えるらしい。元々どんなところに住んでいたのかはわからないのだけど、その景色は都会とは全然違うのだろう、と子供の頃から樫の木タウンに住んでいるレーガでも想像に容易い。

「あ、流れ星!」

 唐突に、ミノリが声を上げる。僅かに頬を上気させて、目を輝かせて。子供みたいにはしゃいで。

「わたし流れ星なんてあんまり見たことないから、わあ、すごい……! ねえ、見えた?」
「残念ながら。オレ、ずっとミノリ見てたから」
「え……な、何、もう。レーガくんってば!」

 先ほどまでと打って変わって、小さく肩を縮こまらせた彼女は見事に耳まで真っ赤に染め上げて照れている。どうやら不意打ちは成功らしい。満足感と彼女の愛らしさを噛み締めながら、レーガはミノリの頭をそっと撫でた。



 その笑みを見ていると、つい。悪戯をしたくなってしまって。

「あ、流れ星」
「えっ?」

 嘘、と上を見上げるその隙を狙って、頬に軽くキスをする。掠めるように。ふわりと。
 柔らかなその頬の表面は外気にさらされ続けていたからかひんやりとしていた。けれど、今こうして目を丸くしてこちらを見ているそれは真っ赤になって。どきどきと心臓の音が聞こえてくるほど。……なんて、嘘。今レーガの耳元で鳴り響いているのは、レーガ自身の鼓動の音。

 自分からしておいて、格好がつかないことはわかっている。ただ言い訳をするとしたら、そう、思っていたよりもずっとずっと、彼女のその反応が、表情が、可愛くて。
 まん丸だった目が僅かに伏せられる。目線が落ち着かないようにそわそわと漂って、それから。もう一度目が合う。
 言葉を紡ぐためではなく、ただ、呼吸を溢すだけの薄く開かれた唇。うっすらと白い息が宙に溶け出す。
 思わず手を伸ばす。それから、あ、と思う。だめだ。手、もう、止められない。
 彼女のふわふわとした髪にするりと指を通すように、手を添える。ミノリが瞼を降ろすのを見届けてから、ゆっくりと距離を縮める。唇が触れるのと同時になるように、瞳を閉じて。

「……もう」

 少しだけ離れたその距離で、小さくミノリが呟く。熱を帯びた目。思わず胸の奥がぎゅう、と鳴る。
 ああ。自分では少なくとも人並みの自制心くらいは持ち合わせていると思っていたのに。明日が休日でないのをこれほど良かったと思ったと思ったことはない。もう一度重ねた唇を、そっと離す。

「……か、帰るか。送るよ」
「う、うん」

 立ち上がるとどちらからともなく手を繋いで、歩き出す。冬の風が頬を撫でる。だけど熱が冷めない。
 二人の間に言葉はない。だけどその沈黙はどこか、心地が良い。
 レーガは歩く速度を極端に落としているにも関わらず、それでも、ミノリの手を引いている。少し自惚れたことを思っている自覚はある。でもつまりこれって、この時間を惜しんでくれていると思って、いいんだよな?

 ああ、本当に。本当に帰る理由があって良かった。彼女を送るまで。送るまでの間だけ。そうやって言い聞かせられる。
 後ろの彼女へ、意識と共に少しだけ目線を向ける。か弱そうに見えるけど働き者で明るくて純真な彼女。大切にしたいと心から思っている。
 だからまだあと少しだけ、こうしていよう。そうやって、いつかその日が来るまではまだ、この熱に鍵をかけておこうと思う。


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