手を伸ばした。自然の絨毯に座り込んだ彼女は、木陰から、どこまでも青いあの空に向けて。
 この手は決して彼方のそれに届かないことは、もちろん分かっている。そもそもミノリにとっては住んでいる部屋の天井ですら遥か遠いのだ。
 彼女がそれを伸ばすのは届かないそれに向けてではあるが、正確にはそれではなかった。向けたのは方角、向けたのは、そこにひらりと舞う白い蝶々。

 薄く開けた口から待って、と音のない声が漏れる。
 ひらり、ひらり。けれど宙を自由に漂う蝶は、ミノリの指を擦り抜けて舞を踊るように飛んでみせる。

「むう……」

 喉の奥を鳴らして、ミノリが小さく唸る。
 自分と違う生命に怯えてか、警戒してか、それは花に留まるように彼女の手には留まってなどくれなかった。
 別に捕獲したいというわけではなく、単に、この手でしばしの羽休めをしてくれたらいいなという願望からの行動であったのだが、もしかして彼らから見ればどちらの手もそう変わりないのかもしれない。
 敵意の有無など、受け取る側からすればわからなくても当然なのだ。もし自分に、己の身体よりも随分と大きな何かが向かってきたとするならば。ミノリは想像して、そしてぼんやりと不鮮明な恐怖に苦く笑った。

 大体、そんな人間的な、仕掛けられたファンタジーのような、そんなことが存在し得るのだろうか。
 頭の片隅に思い浮かんだ小人たちのことはともかくとして、きっと答えは否だろう。だがそれではあまりに現実じみていて、日常的過ぎていて、面白くない。
 こんなにも空は青く澄んでいて、風は穏やかに流れていて、気持ちが良いのだ。こんな日に描く夢物語なのだから、少しくらい浮ついているくらいが丁度良い。

 木陰は風に揺らめいて、その形を変える。隣で木に凭れ掛かって眠る彼の頬を、きらきらと照らしながら。
 週にたった一度の休み。貴重な、貴重なその休みを笑顔で差し出してくれた、とてもだいすきなひと。
 おしゃべりでも出来たら、とこの場にやってきてみたものの、あまりの心地よさについ二人してぼうっとしてしまって、現在に至るのだが、夢の世界に行ってしまった彼に対しミノリは怒りも暇も、微塵にも感じていなかった。
 こうして寄り添って、それで無防備な寝顔を見ていれば、時間なんてあっという間だ。

「いつもいっぱい頑張ってるし、少しでも休んでほしいけど……」

 思わず声に出したもののその声は急に音を落とし、言葉の終わりは喉の奥へと隠れていってしまう。
 起こしてしまうだろうかという心配も全くないわけではないけれど、ただ、少しだけ気恥ずかしかったのかもしれない。
 周囲に人気はない。言葉を向ける相手は眠りの中。いるのは彼女と、まだ辺りを飛んでいる蝶。
 しばしの躊躇い、そうして彼女は、結んだ唇をそっと解く。秘密ねと微笑んで。

「休んでてって思うのと同じくらい、一緒にいたいなって思うの。
 これってやっぱり、わがままかな。
 でも、レーガくんってば両方ちゃんと叶えてくれるのよ。ほんと、敵わない」

 楽しげに笑みを溢すミノリの声は甘く、けれど、蝶にとっては花の蜜の方がずっとずっと甘いのだろう。
 それは、今はただそよ風に撫でられるだけの手のひらにとっても、きっと。


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