ペン先が紙面を滑る、耳障りのよい音がする。
 用意した冷たい飲み物を手にアインが階段を降りると、今まさに音を奏でているその人は真剣な表情で手元のそれを見ていた。とても集中しているようで、きっとアインが階段を下る足音にも気づいてなどいないだろう。
 ちょっと待っておこう。そう考えたアインは階段に腰を下ろし、傍らに飲み物を置いた。外からは海へと向かう斜めの日差しが差し込んでいて、そこからシャトラ特有の夕暮れの空気を感じた。もうすぐ陽が沈みそうだ。けれども、このアトリエの中はいつも、鮮やかな夏よりほんの少しだけゆっくりとした速度でインクとオイルの匂いを感じるものだ。だからだろうか、この人が放っておくと時々時間というものを忘れてしまうのは。……いや、まあ、個人の性分なんだろうけど。
 軽快に線を引き続けていたその人が徐に、確認をするよう顔を僅かに離した。視線を紙上に滑らせて、細部と全体を行き来させて──そうしてふと、ようやく、アインの姿に気づいて椅子ごと体を回した。

「そうしているくらいなら、声をかけてくれればよかったのに」
「集中してるみたいだったからさすがにね」

 少し小さくなった氷が鳴る飲み物を差し出して休憩を促すアインに、ハイネは初めて窓の外の色に気づいた様子でもうこんな時間か、と呟いた。

「筆が乗っていると時間が経つのを早く感じるね」
「元気そうで何よりだけど、食事と整理整頓はした方がいいよ」
「……そうだね、肝に銘じておこう」

 二階の食卓の上に置かれていた書きかけのメモと散乱した資料、それから置かれたままの食事をさっき片づけたのはアインだ。ちくりとした目線を刺すと、甘いマスクの笑顔で柔らかく流された。普段真面目な性分の割に、生活が少し……少し? 大雑把なのはいかがなものかと思う。人と関わるとそうでもないくせに、一人でいる時は多少いいか、となってしまうのかもしれない。アイン自身にもそういう部分があるために理解はあるが、それはそれ、これはこれだ。傍から見るとそういうことは心配に映ってしまう。

「さて、それじゃあ区切りをつけるからもう少し待っていてくれるかい?」
「ん、わかった。じゃあ外にいるから、終わったら声をかけて」

 アトリエの戸を開けて外に出ると、目の前は海だ。今となっては見慣れた光景だが、ここの潮風はアインにとっていつも新鮮だった。
 海の向こうに消えかけている太陽の色と、反対からやってくる夜の色がちょうど混ざり合うような空は、まだ明るいけれども星が瞬いている。自宅とはまた違った光景に僅かに心が沸くのを感じる。
 シャトラの夜は好きだ。濃い色の海、遠く伸びる灯台の光、酒場の賑わい、ゆったりとした波の音。
 それに、ほら。アインにとってハイネが特別であるがゆえに、それらの要素はアインの中でどれも細くハイネに繋がっていく。アトリエから見る海だとか、彼と食べた料理だとか。
 アインはゆっくりと星を見上げた。もしくは、もっと概念的なものだった。この星を見上げていると、なんとなく己のアイデアを喜々として語るハイネの表情が浮かんでくるようだった。そうして、随分と毒されている自分に気づいては密やかに笑ってしまうのがアインの日常だ。ハイネと過ごす日々はアインにとって思いの外に、予想以上に、楽しいものだった。

「お待たせしました、レディ」

 恭しい言葉遣いで誘われて振り返る。そういう言い方をされるとなんだか初対面の頃を思い出してそれもまたおかしかった。自然と笑ってしまうと、ハイネも表情を緩ませて微笑んだ。

「さて。帰ろうか、私たちの家に」
「うん」

 二人で並んで歩き出す。この人を選んでよかったと思える毎日が誇らしく、幸せであることを一体どうやって伝えればよいのだろうか。当たり前に隣に置いてくれることがこんなにも嬉しいことを、どう表現すればいいのだろうか。
 隣を見上げると、すぐさま気づいたハイネが問いかけてくる。喉の奥に言葉をたくさん押し込めたまま、なんでもないと言ってアインは口を閉ざした。選びきれなかった言葉はそれこそ星の数ほどにあって、全部を表すのはきっと難しいことで。だから試行錯誤して手繰るように進むほかないのだと、アインは知っているから。
 時間はきっとたくさんあるのだ。どれだけ早く感じても、明日が昨日になってしまっても、その先の明日がまだたくさんあると信じていられるから、過ぎゆく今日を惜しむ必要などないのだろう。
 だから、明日もそばにいられることを喜んで、今は隣を歩きたい。そっとねだるように手を触れさせると、ハイネは一瞬驚いたような表情をしてからゆっくりとアインの手を握る。さあ、二人で家に帰ろう。




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