可愛い僕のペット



名字名前という人間は、よくものを忘れる者だ。何か物を置き忘れる、食べた物を忘れる。そういった物ならどれだけよかったかと伏見は思う。名前が忘れる物は大きく分けて三つ。食事、入浴、睡眠だ。仕事の内容等は一切忘れないのだが、生きる事となると食事はおろか、水分を取ることも忘れると言う。
今もまた、目の下に大きな隈を作っていながらカタカタとキーボードを打つ手を止めない。
デスクに置きっぱなしにされている黒い液体がたっぷり入ったコップはいつ置いたものだったか、中身は完全に冷めきっているだろう。
がさりと音を立てたビニール袋を持ちなおし、目を擦りながら淡々とキーボードを打つ名前の後頭部を軽く叩く。

「む、」
「何徹目だ」
「3……4、5?いや6?」
「はぁ…」
「ん、ゴハンの匂い」

スン、と鼻をひくつかせもそりと振り向く名前。すると、動物が餌を強請るようにぐりぐりと頭を伏見の腹に押し付ける。伏見はそれを見て少し口角を上げ、丸い頭を一撫でし、適当な椅子に座る。がさがさとビニール袋の中に手を突っ込めば、お目当ての物はすぐに見つかった。
プラスチックの箱に入れられた甘ったるい香りを放つ苺のタルト。それを見た瞬間、名前の表情がパッと明るくなり、ぴたりと手を膝の上に乗せてまだかまだかと、目を輝かせる。
残念ながらフォークが無いので、無料で置いてあった割り箸を割り、苺のタルトを一口ほど箸に取ると名前の口元へやってやる。
既に口を開けて待っていた名前の口にタルトが吸い込まれ、もそもそと小さな口がタルトを咀嚼して動いていく。喉がゆっくり上下し、嚥下すると、名前は花が咲いたように顔を綻ばせる。

「おいしい」
「そうか」
「さるひこの食べさせてくれるゴハン好き」

そう言って、ふにゃりと笑った名前に伏見はギュッと心臓を掴まれたような気分になった。
名前は伏見がこうして何かを食べさせない限り、自分から何かを食べようとしない。本人曰く、忘れているだけ、らしい。しかし、伏見には名前が食事を忘れていようが忘れてまいが、どうでもよかった。
"伏見が何かを食べさせない限り、自分から何かを食べようとしない。"その事実だけがあればいいのだ。
自分以外の誰かが、同性の淡島からでさえ食べ物を受け取らない名前が、自分の手から運ばれるものだけを食す。
一口、また一口、とゆっくりタルトを食べていく名前に思わず破顔する。

「お前…もし、俺がいなくなったらどうするんだよ」
「さるひこ、いなくなっちゃうの?」

情けなく眉を下げた名前に、伏見はタルトと一緒に買ってきた炭酸のペットボトルにストローをさしながら「もしもの話だよ」と返す。

「んー……」

たっぷり十秒。何でこんな質問をしたんだと伏見が後悔し始めた頃。名前はまたふにゃりと笑って、

「じゃあ私、死んじゃうね」

そう言った。

「一人じゃ何にもできないから、さるひこがいなきゃ私、水も飲まないし、ゴハンも食べないし、お風呂も入んないし、お布団で寝るのもしないだろうから…。だからそのうち死んじゃうね」

だから、

「いなくならないでね」

控えめに触れられた手は吃驚するほど冷たくて、その冷たい手を見て伏見はあぁ、爪も切ってやらないと、と考える。
名前は自分がいないと死んでしまう。飼い主がいなければ生きていけないペットのようだ。
伸びた爪に触れながら、伏見は口角を上げる。

「あぁ、ずっと…俺がそばにいて名前の面倒見てやるよ」

だから、ずっと一人じゃ何もできないままでいたらいい。俺がいなきゃ立つことも出来なくなればいい。俺がいなきゃ笑うことも出来なくなればいい。
そう思いを込めて、柔らかい笑みを作る唇に触れた。



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