ポラリス





「苗字さん、今帰り?」

そう声をかけて来たのは、同じ部署の先輩だった。

「はい。駅前で待ち合わせがあって」
「そうなんだ。駅まで一緒に行こう」

男性と一緒にいる状態で万が一待ち合わせをしている彼と鉢合わせするのも気が引けるが、断るのも変な状況なので、流れで一緒にエレベーターに足を運ぶ。

「今日は、彼氏?」
「えっ、私そんなに分かりやすいですか?」
「はは。いつもと何となく雰囲気違うなって思って、カマかけてみた」
「ふふ。正解です」

久しぶりに彼に会えるとなれば、それは気合も入るというものだろう。髪は緩く巻いて、目元は普段仕事にはあまり着けないラメ入りのシャドウをのせた。派手過ぎないように控えめに、でも少し目元が煌めくように。恋人である若利くんは、年下ではあるが、いかんせん彼は貫禄がある風貌なのだ。年上の私が合わせにいくというのも変な話だけれど。

でも見た目だけではなくて、仕事も頑張って自立して、プロバレーボール選手という特殊な仕事をしている彼が甘えることのできる、拠り所であれたら良いなと思って日々モチベーションとしている。彼と恋人という関係になって、バレーボールも勉強したし、試合を観るのだって大好きだ。

けれどどうしたって、それが中心にある彼の世界を100%理解することはできないし、遠く感じてしまうこともある。だから彼に依存しきらないように、自分の仕事や生活を充実させて、しっかり形を保っておきたいと思う。それ自体は良いことだと思っているし、彼にとってバレーボールと切り離したところで、安らげる場所になりたいと思っている。と同時に、少し寂しくも思っている。纏まりもないので、彼に話したことはないけれど。

他愛のない話をしていれば、あっという間に地下鉄の入り口に到着した。

「じゃあ私、ここで」
「うん、お疲れ様」

ひら、と手を振って踵を返そうとすると、

「わ、っ」

トン、と温かくて大きなものに頭と背中がぶつかる。

「名前」
「び、っくりした、若利くんか」
「......今のは」
「今の、ってあぁ、会社の上司のひとだよ」
「そうか」

基本、彼は表情が変化が少ない。だから彼の感情を読み取ることは困難だ。けれど、今は少し唇をきゅっと結び、何か言葉を飲み込んでいるような顔をしていて。

「...どうかした?」
「......いや、何でもない。行こう」

そのまま彼の大きな掌に右手を取られ、つられて歩き出す。

彼は背が大きい。成人女性の平均身長の自分と比べると歩幅が余りにも違うので、手を繋いで歩くときはいつも私のペースに合わせてくれていて、それがいつも私を安心させた。けれど今は、強引に手を引くかたちで、私は着いていくのがやっとだ。

「若利くん」
「なんだ」
「もう少し、ゆっくり、」
「!...すまない」

やっぱり自覚なかったのか。難しい顔と、いつもより少し強引なのは、

「何かあった?」
「いや...」
「言いたくなかったら、大丈夫だけど。教えてくれたら、嬉しい」

一瞬若利くんは目を伏せて、ひと呼吸飲み込んだ。

「......さっきの。上司、だったか」
「あ、うん。同じ部署のね。ちょうど帰り一緒になって、駅まで」


「...俺は、世間から見たら特別な仕事をしている。さっきの上司のような、きっちりとしたスーツを着て名前の横に立つことはない」
「...うん」
「仕事が大変で辛そうにしている名前を見ても、同じように働いたことがないから、掛ける言葉が正解か分からない」


「...なんだ。おんなじだ」
「?」
「私もね。同じようなこと考えてたよ」
「名前もか?」

まさに同じような悩みを抱えた私たちは、きっとこれからも、少しずつでも、歩み寄っていけるんだろう。

「うん。私は普通の人間だから、プロとしてやっていく大変さとか、辛さはわからない」
「......」
「でも」

きゅ、と若利くんの左手先を握る。

「いまの若利くんの話聞いたら、なんか、全然大丈夫だったなぁ」

隣から返事は聞こえないが、ぎゅ、と若利くんの分厚くて熱い手のひらがわたしの手のひらを包んだ。




「...名前は自分のことを普通の人間だと言うが。特別に思っている人間もいる」
「ふふっ、うん」

手を離さずにしっかり踏み締めて歩いていけば問題ないと、頭上できらめく星が見守ってくれている。そんな静かで美しい夜だった。





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