指輪はない





「え、食べてきたの?」
「ああ」
「どうして連絡くれないの、言ってくれればわざわざ今日来なかったのに」
「練習が長引いた。連絡する暇がなかった」
「だからって、一言くらい...」
「仕方ないだろう。それにしても、何故こんなに量が多いんだ?」

そんな認識はなかったがやはり身体は疲れているのか、意図せず強い言葉になってしまう。それはテーブルに並べられた豪華な料理を見て、純粋に口をついで出た言葉だった。本当に何気なく、無意識に。

「っ、もう、いい」

ほろり。名前の瞳が潤んだと思った刹那、涙が一粒落ちた。

「おい、」
「今日は帰る」
「待て、この時間にか?」
「平気だから」
「名前!」

あれよあれよと、エプロンを脱ぎやたら大きな手荷物を手にして、名前は部屋を出て行く。そこまでが余りにも一瞬で、いつもより大きな音を立てた玄関の扉を見つめるしか無かった。

テーブルに改めて目をやり、追い掛けるべきか、連絡を入れるべきか、どうするべきかと考える。ふと時計に目をやったとき、近くに壁掛けられたカレンダーが目に入った。今日は木曜日。世間一般的には普通の平日。名前は仕事終わりのはずで、俺の部屋に来て、これだけの料理を作って。何故だ?

そこまで考えて、やっとひとつの答えに辿り着く。

「......何をやっているんだ、俺は」

あろうことか。2年前の今日、俺と名前は恋人という関係になった。ということは、この手の込んだ豪華な料理は、それを祝うためのもの。

直ぐに携帯と鍵だけを持ち、部屋を飛び出す。遠くへは行っていない筈だし、帰ると言うのなら駅の方面か、気を落ち着かせるために駅前の公園にでも居るかもしれない。とにかく、早く謝らなければ。

俺はどうやら鈍感で言葉が少ないらしく、天童にも散々言われてきたことだが、そんな俺に名前が文句を言ったり、怒ったりしたことはない。いや、思うところはあっても、出さずにいてくれたのかもしれない。

走って駅付近に辿り着くと、公園のベンチに似た背格好を見付けて思わず安堵する。ゆっくりと近付いていけば、彼女で間違いないことを確認できた。

「......名前」
「わか、とし...」

街頭に照らされている名前の目元は少し赤く、急に心臓を鷲掴みにされたような気持ちになる。取り敢えず先程の様子よりも落ち着いたようで、隣に腰掛けた。

「...悪かった」
「理由分かって謝ってる...?」
「ああ。今日のこと、忘れていてすまなかった」
「......ううん。私も、ごめん」
「何故名前が謝るんだ」
「いや、何ていうか、感情的になっちゃったから。らしくなかったなって」
「そうさせたのは、俺だろう」

できるだけ優しく、安心できるように、名前の身体を懐に包み込む。

「すまなかった。今日のことが、完全に頭から抜け落ちていた。言い訳はしない」
「うん...ちょっと寂しかったけど、忙しいししょうがないよ。でも、それより、自分の心の狭さが嫌になったっていうか」
「......」
「ご飯食べてお風呂入って直ぐ寝るのいつも見てて、本当に練習頑張って疲れてるのも分かってたのに、」
「名前」

非はないのに、泣かせてしまったこの期に及んでもまだ、名前は俺に気を遣う。俺も名前も、それぞれの日常をこなして、頑張っているのだから、疲れたら疲れたと寄り掛かれば良いだけのことだ。

「今日は仕事だったんだろう。なのにわざわざ来て、食事も用意してくれたのに、本当に悪かった」
「...うん、」
「名前」
「うん?」
「2年間、有難う」
「...っ、こちらこそ。ありがとう」

ぐすり、と音が聞こえたので腕を緩めて顔を覗くと、目元に涙が溜まっていた。これで泣かれるのは何だか悪い気はしない。

「名前」
「うん」
「一緒に住まないか」
「っえ、」

そうすれば、お互いを見逃さずに過ごしていけるだろう。

「嫌か?」
「そんなわけ、ないけど...」
「あと、」
「うん...?」
「結婚しよう」
「......へ」

こんなことをここで言うつもりは無かったが、名前以外と添い遂げる気もなければ、他の誰かと一緒にいる自分も想像出来ない。そう思ったら、思わず口にしてしまっていた。

案の定、名前は口をポカンと開けたと思ったら、目をパチパチとさせて慌てている。

「こういうのって、ムードとか、ほら、あるじゃない...?」
「そうか。それはすまなかった」
「私目も腫れてるかもだし、こんな、」
「いつも通り綺麗だが」
「今そういうこと言う!?」
「言いたかったから言った。駄目か」
「駄目じゃない、です...」

また腕に閉じ込めて背中をゆっくりとさすると、自分よりも小さいことに改めて気付く。何から、と聞かれると難しいが、護ってやりたい、と思う。

「そろそろ帰るぞ。明日も仕事だろう」
「......有給取ったから、やすみ」
「......!そうか」
「若利休みだって、知ってたし...」
「なら今日は俺が名前を労ることにしよう」
「っえ、何するの...」

明日も一緒に居られると聞いて、柄にも無く感情が出てしまったような気がする。久しぶりにゆっくり過ごす週末は、これでもかというくらい目の前の恋人を甘やかすことに決めた。離れてと邪険にされても、離れてはやらない。





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