真夜中救世主
「名前チャンが1人で泣いてなきゃいいなって、思って来たわけですよ」
カウンターで肩を並べて座る黒尾に、何でいるの...と可愛げのないことを言うと、彼はそう笑った。食えない人というのは、こういう人のことを言うんだろう。そんなこと言われたら誰だって期待してしまいそうなものだけれど、彼の場合はこういうことを恥ずかしげもなく口にする人だと、私は知っている。
時刻はもう日付が変わったところだが、電車がなくなるのはどうでもよかった。金曜だし、帰りたくなったらタクシーで帰ればいいし、朝までいたっていい。バーというと気取った雰囲気であるが、昼はカフェ、夜はバーになるお店は、適度に他の客の話し声が聞こえる程度で、ちょうど良い雑音になるので1人で来るにも良い場所だった。軽く飲むには居酒屋より気楽に入れるので、黒尾と仕事終わりに寄ることもあった。そんなわけでどうやら、私がここに居ると当たりをつけて彼は来たらしい。
潮時だとは、思っていた。「今日飲み会になった」と付き合って1年になる彼氏から連絡が入ったのは、定時を迎える間際だっただろうか。大学時代の友人の紹介で出会い、所謂合コンであるが、気さくで話しやすい彼に惹かれて、暫くして付き合い始めた。若気の至りか、お互いの存在に慣れてくると些細なことで嫌気がさしたり、物申したくなる。好きと言ったり、言葉にすることが減っていく。でも、それでも、付き合って1年を迎える今日のことは覚えているんじゃないかって、心のどこかで期待していた。だからあえて、食事をしようとは伝えたけれど、記念日のことは明言しなかった。試していたのだ。そんな私の期待は、儚く散ったけれど。
「泣いては、ない。何となく、分かってたし」
「そ?なら良いんだけどな」
その声色と、頭を掠めた手のひらが余りにも優しくて、視界が滲むのがわかる。それは決して私の強がりを鵜呑みにしているものではなくて、泣いても、落ち込んでも、そうじゃなくても、どっちでもいいよ。と言われている気がしたからだ。
黒尾は同部署の同期で、仕事のことから恋愛まで、色々話をする間柄だった。聞き上手であるし、意外と適切なアドバイスをくれるので、良き相談相手でもあった。もうすぐ彼氏との記念日で、珍しく一緒にゆっくり過ごせそうなんだ、ということも。
隣に座る黒尾に気付かれないように、静かに涙をこぼしては、中指でさっとぬぐう。コンタクトの調子が悪いのかな、くらいに思ってくれないかな。無理だろうな。黒尾、無駄に鋭いから。
「一応、ネクタイ選んでみたの。似合いそうなやつ」
「......うん」
「念願のプロジェクトに入れることになったって言ってたから、記念日と、応援のつもりで」
「ん」
「そこそこ奮発したのに、無駄になっちゃったなぁ...」
好きだって、言ってくれたのに。少し顔を赤くして、はにかんで笑って、今日も可愛いね。って言ってくれたのに。私だって、ちゃんと、好きだったのに。なのに、最近はメイクを変えても新しい洋服をおろしても、気付きやしない。良い香りのする某ブランドのボディクリーム(結構した)で手入れしておいたって、触れる気配もない。彼が家に来る日にはできるだけ好物を用意して待っているのに、段々美味しいともちゃんと言ってくれなくなった。都合の良い時だけ来て、欲を満たして、帰っていくのだ。あれ、何か悲しいを通り越して、腹が立ってきた...
「......あーーーもう!電話してやる!別れてやる!アラサー女の貴重な時間返せ!」
「おー、その意気その意気。でもアラサーは言い過ぎね。まだまだ俺ら若いんだから」
「...っ、金も、返せ!」
「そっちが本音でしょ名前チャンは」
くくっ、と横から黒尾の笑い声がして、目元の涙も引っ込んできた。いいんだ、もう、私のことを大事にしてくれない人に、これ以上私は何も返せない。さっきまでしょっぱく感じていた手元のソルティ・ドッグは、思い切ってぐいっと飲むと、爽やかに喉を通りぬけた。
「いいよね、これ、別れていいレベルで合ってるよね?」
「ん、まぁそればっかりは人によるけど。一番近くにいるのに、頑張って可愛くしてる名前チャンに気付けないような野郎なら、別れていーんじゃない」
そうニヤリと溢して、黒尾はカウンターのお姉さんに声を掛けた。
「すみません、私も同じのを......黒尾って本当、そういうことサラッと言うよね」
「そう?まぁ、名前チャンのメイクがいつもより気合入ってんのとかは、確かに気付いてたけどね」
「...!ほんと!そういうとこ!良くない!」
「くくっ、何で?可愛いって言ってんのに」
そう言ってからからとグラスを揺らす黒尾は、不覚にも、格好良いのだ。そう思う自分が嫌になる。黒尾が良い奴だってことは充分に知っているけど、暫く恋愛で傷つくのは御免だ。
「あんまり、そういうこと言わない方がいいんじゃないの」
「?」
「...女の子だったら誰だって、期待すると思うけど。そんなこと言われたら」
そう言うと、猫目が珍しくまあるくなって、ぽかん、としたと思えば。それはまあ、色気たっぷりな顔で、「期待、したらいいんじゃないの」なんてつぶやいた。
「...え」
「俺だって、流石に言う相手は選んでるよ」
それって。つまり。狼狽える私を他所に、彼はどこかもう吹っ切れたように、言葉を続ける。
「傷心中の名前チャンに漬け込もうとしてる悪い男だけど、ドーデスカ」
「どう、って」
「......仲の良い同期は、そろそろ卒業させてってこと」
グラスに添えていた右手に、黒尾の、左手が触れて。人差し指を、熱をもった親指がゆっくりと撫でる。はっきりと言葉にしないところが、黒尾らしくて、もどかしくて、狡くて、嫌になるから。いなされてしまうと分かっているけど、少しだけ抵抗してみる。
「...ちゃんと言ってくれないと、分からないよ」
やっぱり黒尾は、私が言葉を求めるのを分かっていたようだった。
「ははっ。それはもう少し、先な?」
友達以上恋人未満的なヤツだよ、なんて。恋が終わったばかりの私に気を遣うといえば聞こえはいいが、そうやって、焦らして、私が我慢できなくなるのを待つつもりなのだ。
「...やっぱり黒尾、ずるい」
「おー、何とでも言いなさい」
今度はしっかりと、頭に大きな手のひらが置かれる。そのまま髪をすべっていく。
「...次はさ、」
少し骨張った指先は、アイロンで巻かれた後れ毛であそんでいる。
「デート前に頑張ったり、仕事しんどくても気丈に振る舞ったり、意外と泣き虫だったり、そういう名前チャンのこと、見逃さない男にしなよ」
ぼっ。効果音を付けるならそれがピッタリなくらい、私の顔は一瞬で赤く染まっただろう、自分でも分かる。
んじゃ、夜の街に繰り出しますかねー、と私の手を引いて店を後にする。どこか危なげなのに、この広い背中に、着いていきたくなってしまうのは何でだろう。
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