閑話 「再会」



 携帯が取り上げられ、スレッドを映す画面の代わりに昊希の目の前に現れたのは、怒りを滲ませた形兆の顔だった。
 スレ民は『おこ』などと形容していたが、そのような生易しいものではなく、まして激おこぷんぷん丸などと茶化せるものでもない。言うなれば憤怒。控えめに言って、とても怖い。直視できずに、昊希が視線を彷徨わせば、形兆の運んできた二つのグラスが視界に入った。中の液体の色に、麦茶かなと思考を若干現実逃避させる。
 いやだがしかし、このお茶も怖い。怒りの中で見せた、形兆の気遣い。向けられている感情の種類がどうにもアンバランスで、昊希は落ち着かなさを感じてしまう。もしや、このお茶は彼の最後の慈悲なのではとさえ考えて、グラスを受け取ることに脅えた。

 ――どうしてこうなった。
 半ば押し付けられるように形兆に差し出され、結局受け取ってしまったグラスの麦茶の水面に視線を落とし、昊希は回顧する。


 授業が終わり、帰宅しようとしていた昊希を学園の門前で待っていたのは、不機嫌そうにした形兆だった。
 周りの学園生徒達が形兆から距離をとるのに倣って、昊希も彼の立つ位置からは離れたところを通って人の流れのままに学園を出てしまおうと考えたのだが、昊希の周りから人が退いていったかと思えば、後ろから形兆に肩を掴まれていたという恐怖展開のもと、それは叶わなくなってしまった。
 遠目で確認した時より不機嫌そうな形兆の険しい顔に、昊希の口からは、考えるより先に「はじめまして」の言葉が出た。

「あ゛?」

 形兆から凄みの効いた声が返ってきたことに、昊希は身を固くする。言ってしまったものは仕方がないと、初対面を装ったまま昊希が名乗れば、形兆は少し目を眇めた後、己の名を名乗った。虹村形兆。前世と変わらぬ響きだ。

「あの、僕に何か御用ですか?」
「用件は、お前が一番分かっているだろう」
「……人違いでは、ないですか」
「お前だ。棚夏――いや、木村昊希」

 ひく、と昊希の喉が震えた。
 形兆が、昊希の腕をがしりと掴む。震えが全身に伝播するようだった。喉で息がつっかえている。苦しい、と昊希は思った。

 ここでは視線を集め過ぎると判断したのか、形兆は昊希に有無を言わせず、その腕を引いて移動する。この町に越して数日の昊希は、すぐに自分が何処にいるのか分からなくなった。掴まれた腕が痛い。

 形兆に腕を引かれるがまま、どれほど歩いただろうか。形兆が立ち止まったのに、昊希もつられて立ち止まる。周囲は住宅街、目の前には一軒家。表札には、『虹村』とあった。

 形兆がまた、腕を引く。家の敷地に引き入れられて、昊希はどうしようかと思った。
 ――これは、どういう意味だ?
 前世、あれほどに越えることの難しかったものを、他ならぬ彼の手で、こうもあっさりと許されてしまった。昊希が理解できず呆然としている間に、あれよあれよと玄関扉をくぐらされ、昊希は家の中へと押し込まれる。
 靴箱、家族写真、生活の匂い。受け取った情報に、昊希はついていけないでいた。

 脱いだ靴を揃える暇も与えられず――代わりに形兆が昊希の靴を揃えていた――昊希は責め立てられるようにして階段を上った。背後に立つ形兆が恐ろしい。退路を断たれてしまっている。
 二階の廊下も真っ直ぐ進んだ昊希は、通り過ぎかけた一室に引き戻され、そこに放り込まれた。……個人部屋。あの屋敷じゃ、無かったのに。
 カーペットの上に昊希が座るのを確認して、形兆は飲み物をいれてくると、部屋を出て行った。閉められた扉に、鍵をかけられたわけでもないのに、閉じ込められたような心地がする。気分は、処刑待ちの罪人だ。

 ぐるりと部屋を見渡せば、この部屋が、いかに隅々まで整理整頓が行き届いている場所か分かる。綺麗に並ぶ教科書類。本棚に並べられた書籍は、その背丈までもがきっちりと揃えられている。
 几帳面さの滲み出る、『形兆の領域』と言っても過言ではないその部屋は、本人が不在であるにも関わらず、かの人の存在を訴え、昊希に圧迫感を与えていた。まるで四面楚歌。死地にいる気分である。


 そう、それで、昊希は震える手で携帯を手に取り、スレッドを開いて――
 策は立てられず、部屋に戻ってきた形兆に携帯を奪われ、冒頭へと戻るのだった。なんということだ。現実逃避が一周してしまった。
 もう、外部に助けを求めることはできない。昊希は、追い詰められてしまっている。つみです

 顔を上げれば、相変わらず怖い顔をした形兆がいる。昊希はすぐさま視線を落とした。
 沈黙、そして、沈黙。現状打開の道筋も見つからず、もう一周現実逃避といこうかな、と昊希が血迷ったことを考え出したところで、階下からタツタツと、スリッパを鳴らす足音がする。

「あら、けい君。お友達?」

 階段に向かって発されたであろうその声は、落ち着いた雰囲気を持つ女性のものだった。昊希は玄関先で見た家族写真を思い出す。虹村兄弟に姉や妹はいなかったようであるから、この声の主は形兆の母親だろう。

 ……聞き間違いだろうか。先程彼は、母親に『けい君』と呼ばれていた気がするのだが。
 昊希が麦茶から顔を上げると、そこには相変わらず険しい顔の形兆がいる。だがその姿は、心なしか先程より決まりが悪そうに見えた。
 ぱちり、と昊希と形兆の視線が合う。

「……“けい君”?」

 出来心で口に出された昊希の台詞は、口の中がからからで掠れた声とはなっていたが、きちんと届いていたらしく、形兆からは「やめろ」と言葉が返ってきた。そのぶっきら棒な返しに、思わず昊希が噴き出す。
 恐怖で緊張していたはずの身体が、気の抜けた風船のように力抜けていくのが、昊希には分かった。不思議ともう、形兆を怖いとは思わなかった。

 麦茶を口につけ、喉を潤しつつ、昊希は考える。彼とは、どうやって話していたのだったか。何と言おう。
 昊希が答えを出す前に、形兆が口を開いた。

「何故、逃げた」

 直感的に、それが前世のあの時のことを指しているのだと昊希は悟る。

「いやいや、ここは僕が君に何故殺したって訊くところだろう」

 気付けば、昊希は間も開けず、形兆にそう言葉を返していた。

 ――そう、こうやって話していたんだった。小難しいことなんて抜きに、思うままに。
 錆びついた歯車が、もう一度噛み合って回りだすような感覚がした。
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