修道女と悪魔おそ松(3)

※悪魔設定、前記事の続き

彼女が首から提げたロザリオのチェーンは見るからに年季が入っており、脆そうだ。そして概ね予想通り、俺が指先にそう力を込めずとも、その繋ぎ目は簡単に引き千切る事が出来た。長く信仰し続ければし続ける程、その信仰心の証が劣化してゆく一方だなんて、とんだ笑い話だ。なまじ他の畜生より多少ばかり崇高な精神を与えられてしまった人の子は、大抵が強過ぎる情念を持て余している。可愛さ余って憎さ百倍、愛憎半ば、とは正しく至言なり。愛と憎しみは表裏一体の感情で、殆ど類義語の様なものだ。どちらか片方の純度が高ければ高い分だけ、表にも裏にも転じ易いんじゃないかと思う。
何時も、俺を見詰める彼女の瞳が揺らぐのは、憎悪と同じくらいに裏の愛が宿っている所為だ。表裏一体の愛憎は、決して切り離せない――"無関心"でいられない時点で、決着しているのだ。彼女が俺に屈しなければならない事は、人の子らしく情念を持て余し始めたところで既に、そういう結論が出ていた。彼女が神へ向ける愛だって裏には憎悪をくっ付けており、ちょっとした拍子に裏が表に成り代わるかもしれない。結局、その直向き過ぎる想いを一身に受け止めているのは、俺だけだった。向けるものが愛憎であれ何であれ、神が俺と同じ様には応えてくれない事に、彼女も薄々気付いている。きっと、一方的に気持ちを捧げる事に疲れて、見返りに飢えてしまっているから、彼女は俺を心から拒めない。

「やめて、お願いだから、」

抵抗は口先だけで、残念ながら、そこに説得力なんて全く無かった。神が人々に等しく与えてくれる真の愛、無償の愛、所謂アガペーというもの。存在しているという確証は何処にも無い、目に見えないものを頼りにして生きるには、人は余りにも脆弱な生き物だ。それでいて気丈に、尊く振る舞いたがるものだから、惨めで愛くるしい。可哀想な迷子に優しく手を差し伸べ甘やかすのは、俺にとって余りにも容易い事だ。何故かって、理由は実際に手を取ってやる事が可能だからに他ならない。けれど、とある宗教書曰く人の子には遍く平等であるが故に、神は特定の迷子に対して導を与えられない。

「本当に、やめちゃって良いの?」

月明かりが重い雲居に遮られた、濃い夜闇の真ん中でも、絶望しかけた泣き顔はよく見えた。夜目の利かない人間の目には、さぞスカプラリオの輪郭が周囲の漆黒に溶け込んで見えて、不安だろう。俺の目には、彼女が濡れた唇を震わせる様も、ぼろぼろとその頬を伝う透明な雫も、はっきりと映っているけれど。真っ赤に染まった耳朶は美味しそうで、どうしようもなく欲を掻き立てるので、噛み付かずにはいられなかった。じんわりと恐怖が滲んだ喘ぎ声は酷く弱々しく、何処に反響する事も無いまま、暗渠に溶ける。此処に居るのは彼女と俺だけで、ただ触れ合っているのが、何て事も無い現実の有様だ。可哀想な人の子がどんなに希ったって、物理的に存在しない神の救いが介在する余地は無い。

「神様が君に、何をしてくれた?君の想いに、応えてくれた?いい加減に認めなよ。君はもう、俺の手を取るしかないんだって事」

アガペーなんて、本当は己に与えられているかどうかも分かっていないくせに。こうして俺がくれてやっている性愛、エロスというものの方がよっぽど確かに存在していて、人が縋るに相応しい。そう、彼女だって今、快楽を素直に享受する身体で理解している筈だ。実際に情を以て触れてくる指先の熱さを知ってしまったからにはもう、目に見えないものを頼れはしない。其処に、目に見える愛としてそれが在って、与えられる、得られるという幸福を知ってしまったからには。
相変わらず、ウィンプルは彼女自身の踵が踏み付けていて、込み上げる愉悦を抑え切れない。俺はぼんやりと浮かび上がる白に誘われるまま、無防備に晒された咽喉に、舌を這わせる。そして、身に纏う物を全て剥ぎ取ってしまえば、敬虔な修道女はただの女に成り下がるのだ。自分でもそうなる未来が予見出来ているから、彼女は尚更、絶望に打ちひしがれて泣くんだろう。こんなにも可愛くて、愛おしくて仕方が無いというのにどうして、彼女を特別に愛せもしない偶像なんかに譲れようか。俺は彼女の心も身体も何もかも、全身全霊で愛でてやる事が出来るというのに。

「ねえ、……本当に、やめちゃっても良いの?」

それは、ずっと愛されたがっていた、見返りに飢えていた者へ投げかけるには残酷過ぎる問いかけだ。でも、俺は彼女を引きずり落としたい訳ではなく、自ら堕ちて来て欲しくて、敢えて問う。「……、いやだ、いやなのに。でも、やめないで、お願い」――吐息に近い、消え入る様な声でも、聞き取るには十分だった。やがて、潤んだ瞳の奥に宿る愛憎の表裏は徐々に境界線を曖昧にして、ぐるぐると揺らぎに掻き混ぜられてゆく。混ざり合った色が再び分かれる時には、もう愛憎の表裏は入れ替わってしまっている。気高い神の使徒は断末魔の声も無く息絶え、ひたすら俺に愛されるだけの女が生まれる。
やがて、ふらふらと細い指先が心許無げに暗闇を彷徨いた後、とうとう俺の腕にしがみ付いた。彼女が信仰を迷うのも、今日までだ。俺はその魂を導く様に、在処を思い知らせる様に、地に堕とした純金のロザリオを踵で踏み抜いた。ぱきん、と何とも軽い音を立てて呆気無く壊れたそれは正しく、彼女が神へ一途に捧げ続けた愛の哀れな末路だ。愚かな彼女の耳にその悲鳴が届いたかどうかは、定かじゃないけれど。悪いね神様、これからは代わりに俺がこの子に愛される事になったから――なんて誰に言うでもなく、ただ薄暗い喜びだけを奥歯で噛み締めた。

(君に恋したあの日から診断メーカーより、「どう足掻いても、結末は変わらないの」)

2016/08/10 18:01


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