この悪魔!
『ワルツも踊れないなんて……冗談でしょ?』
女の引き攣った笑みが忘れられない。
プライドが傷つけられた男は、衝動的に頭から女を喰らってしまった。幸いにも、女は男よりも下位の存在だったため騒ぎにならず済んだが、今後は頭に血が上る癖についても考えなければいけない。……それとダンスのレッスンも。
口元をハンカチチーフで拭いつつ内心で己を顧みていると、視界の端でなにか引っかかった。よく目を凝らす。
木製のブランコに座る少女の後ろ姿。しかもペアではなく一人。
ハンカチチーフを振るようにして勢いよく皺を伸ばしてから、タキシードの胸ポケットへ仕舞う。髪を手で整えつつ、音楽に合わせてステップを踏む人々の間を縫うように進んでいく。
「失礼、レディ。素敵な服だ。よければ私と一曲いかがです?」
仰々しい仕草で腰を折って手を差し出す。
容姿にはそれなりの自信があった。だから、サプライズ的な趣向を含めて右斜め後ろから声をかけた。少女が振り返る。
絶句する。
少女は“少女”では無かった。ハーフボンネットの中心にある顔は、そう断定できるほど明らかに男性のものだった。全身を包むロリィタ衣装にあしらわれた分厚すぎるフリルは、男の逞しい骨格を隠すためのものだったのだ。
ホワイトを中心とした淡い色の真ん中にある男の肌色。その歪さは男を慄かせたが、それ以上に恐ろしい事実が男の脚を竦ませた。
(バージルの息子……!!)
「しっ失礼しましたッ!!」
「うせろ、****」
その言葉を受け、身に着けているタキシードを皺だらけにする勢いで男は走り出す。
スパーダ一族主催のパーティ、それがなんだ。あのバージルが溺愛する息子を口説いたなどと知れたら、それこそ先ほどの己が女にした以上に惨いやり方で殺される。走る男の顔は青ざめている。顔を売っている場合ではない、早く逃げなければ。
会場から出る階段をかけ下りる際、男は足を滑らせた。そのまま一番下まで落ち、男の首はあらぬ方向へ曲がった。だが、幸いにもその場に男よりも下位の存在がいなかったため、騒ぎにならず済んだ。
***
スパーダの一族が主催する夜のガーデンパーティ。開催は当日の昼に突如決定したに関わらず、屋敷の庭は人々で溢れかえっている。緑の庭園の中に真っ白のパラソルとテーブルがいくつも並べられ、その上に色とりどりの食事が並んでいる。ネロが座らされたブランコは、中央から外れた場所に据えられていた。傍を通る誰もが瞠目したあと気まずそうに眼を伏せる。
先程のような****野郎は今夜で三人目だ。ネロは顔を歪めて舌打ちする。
彼が生まれ育った屋敷は、彼自身にとって狭すぎた。窓にはめられた鉄格子が。扉にかけられた錠前が。それらが“当たり前”ではないと気付いてしまうに、ネロは十分聡明だった。五つになる頃には、当時屋敷の主人だった叔父の目をかいくぐっては何度も脱走した。幼いながらに魔界から出るリスクは理解していたため、ネロの勇敢な冒険劇はあくまで世界の一部分に収まっていた。その上、ネロを産まれた頃から知る彼の叔父は脱走を寛容した。「魔界からは出るな」と言い含めており、ネロの脱走は暗黙の了解ですら無かったのだ。
しかし、それも十五になったネロが叔父とのたった一つの約束を破るまでだった。
好奇心が警戒心を上回ったその日、人間界に踏み出したネロの体は合わぬ気候に重傷を負った。運よく善良な人間の施しを受けたまでは覚えているが、目覚めた時には自室のベッドで眠っていた。
その傍らには見たことも聞いたことも無い悪魔がいた。それは自分を“お前の父親”だと名乗った。
「ダンテは?」全ての疑問を差し置きなんとかそう絞り出したネロにつきつけられたのは、非情な答えだった。
「もういない。奴の庇護はお前の身の安全と引き換えだった」
そう語るバージルの言葉で体に穴を開けられながら、ネロはようやく違和感の正体に気付いた。部屋の光の色が、違う。
鉄格子のはめられていた窓は、全て鉄版で蓋をされていた。
「次に逃げたら、お前の尊厳を破壊する」
叔父が消え、“父親”と名乗る男と暮らし出してから、ネロは三度の脱走を犯した。先の宣言は三度目の脱走を連れ戻されてからの折檻途中に下されたものだ。
それから数日も立たないうちに、ネロはまた逃げた。二度と屋敷には戻らないつもりで、生涯の内で全力で逃げた。
――――“父親”が下した折檻はこれまでで一番苛烈なものだった。
息も絶え絶えで床に這いつくばる“息子”。その体を感情の読めない目で見下ろしている、かと思えば今度は「清めるように」と使用人へ指示している“父親”の声が聞こえてきたネロの心情は絶望的だった。「尊厳の破壊」という曖昧だった言葉が、いきなりずっしりとした現実味を帯びてくる。這いつくばって逃げようとしたが、その体力すら残っていなかった。
ネロを幼いころから知っている使用人たちに裸に剥かれ、体を隅々まで洗われた。更に用意された洋服を見てネロは愕然とした。ふと優しかった“叔父”の声が蘇った。しかし、今ネロを助けられる者はどこにもいないのだ。使用人たちは揃って固い表情で成人している主人の息子を着替えさせ始めた。
百合の花のように開いた袖は、ネロの手より下でキツく結ばれた。パンプスを履かされた上から更にキツく布を巻かれ、纏足のような有様にされた。これでネロは手と足の自由を奪われた。
体格のいいネロは使用人四人がかりで運ばれた。パーティ会場の隅に置かれた、花が大量に盛られた木製のブランコはネロの見たことが無いものだった。そこに意思のない人形のように座らされた。
パーティが始まってから、“父親”は一度もネロの前に現れていない。
「おい、アンタ」
使用人の一人がビクリと肩を竦ませる。ネロが知らないその使用人は、壮年の男性の顔立ちをしていた。ジャケットを着ていないベストのみの出で立ちから、使用人の中でもそれほど上の立場でないことが伺える。そこに目をつけた。
屋敷の主であるバージルから言いつけられているだろうし、無視をされる可能性はネロにも予想できたが、男性は足を止めるとネロの方を向いた。何人かに声をかけるつもりでいたネロは、意外に早い段階で労力が割けたことを内心で喜んだ。パーティの参加者たちがネロに慣れた頃を見計らっての行動だったので、二人に注目する者もいなかった。
「そのケーキ、食いたいんだけど。俺の手こんなんだろ?」
クイッとネロが顎を上げる。使用人が手にするトレーには小ぶりなケーキが並んでいた。男性が一瞬ケーキに視線をやるのをネロは見逃さなかった――人間を誘惑するのを性とする悪魔は得てして容姿が整っている。だがネロたちの――スパーダの一族は、その傾向が特に顕著である。彼らの美しさは悪魔でさえ魅了する。
「くわせて」
喉奥まで見えるほどネロは丸く口を開ける。使用人が僅かに唇を開けるのが見えた。それでもきょろきょろと周囲を伺う仕草をするので、「早く」と言って促す。ついでに顎を引く。赤黒い喉奥を晒されて、使用人が唾をのむ。
震える手でフォークに刺したケーキがネロに差し出される。使用人はそれでもまだ葛藤しているようで、ネロがギリギリ届かない位置にフォークを構えたまま、ちらちらと視線を回し始める。
瞬間、ネロは渾身の力で上半身を伸び上げた。ケーキごとフォークに噛みつく。ガチッ、と大きな音がなり、使用人は反射的に腕を引いたが、強く噛まれたフォークは少しも動かない。
そして、使用人は信じられないものを見た。主人の息子は噛んだフォークを舌で器用に口端まで動かすと、ぐさりとその先で唇を刺したのだ。真っ赤な血がとろりと白い肌の上を伝うのを、使用人は泣きたくなるような気持ちで見ている。あまりのパニックに、フォークから手を離すという考えすら浮かばなかった。
「馬鹿な男が手を滑らせたって親父に言うぞ」
プッとフォークを吐き出したネロが口端を歪めるように笑う。手からフォークを滑り落した使用人が顔を真っ青にしてガクガク震えている。
たっぷりのフリルで重たいくらいの両腕を、掲げるように目の前まで持ち上げる。
「これ、動きにくいんだけど」
***
バルコニーが騒めいている。参加者たちはお互いのパートナーを忘れたように、皆一斉に満月が上る夜空を見上げ口々に『彼』の名前を呟いている。
突如、夜空が切り裂かれる。その亀裂から溢れるように四対の翼が勢いよくその身を広げた。途端にワアッと歓声が起きる。夜空さえをマグマのように濃い赤に変えるほど、濃厚な魔力が渦巻く。
だが、威光を知らしめるようにあくまでゆったりとその身を持て余していた赤い魔人は、突然巨大な翼を翻すと、竜巻のように三度素早く空を駆ける。参加者たちに動揺の空気が広がる。刹那、夜空が割れる。三度続けて大気が震えて悲鳴が上がる。
『大したご挨拶だなぁ、オイバージル!』
ビリビリと肌に刺さるような声が響く。大勢はその声に耳を塞ぐことすらせず、耳に入ってきた名前に揃って慌てふためいている。
「姿を現せば殺すと言ったはずだ、ダンテ」
うわああああ! キャアアアアア!
悲鳴。人が人を倒す混乱が、水を打ったように広がる。
無理もない。瞬きをするために目を閉じ、そして開けた時、当主がそこに――人々の中心に“いた”。音も魔力の気配も無く、だ。蜘蛛の子を散らすように人々は逃げ惑う。膝すら地に着かず『バージル』の前に立てば明日は約束されない、それが悪魔たちの共通認識だ。だがバージルは逃げ惑う悪魔たちなど見えてないように空を見上げている。
芝生風で波立たせながらダンテがバルコニーに降り立つ。バージルの周りには落ちたグラスや料理、千切れた悪魔が散乱していた。
「ネロを攫ったのはお前か?」
バージルが纏う空気は静かに見えた。
しかし、それと対峙するダンテの首筋は粟立っている。ぞわぞわと背中の産毛が逆立つような感触を覚え、高揚感に身を震わせつつ一度喉を鳴らす。怒る兄の肉は一際うまそうなのだ。
「“いいや”」
「分かった。ならもういい消えろ」
一言をつきつけるように放ち、バージルは踵を返す。同時に肌を刺していた殺気の膜が綻び、思わずダンテが「おいおい!」と叫ぶ。
「待てよ。俺は可愛い甥っ子が晒しものになってるって聞いて来たんだ」
「女装させて晒していた。だが消えた」
なに? と無精ひげを撫でながらダンテが口を曲げる。すぐに横目で怯える群衆を睨めつける。
「アイツだな。ネロの匂いがする――」
常日頃より低い声を唸るように出し、ダンテが右腕を上げる。
「やめろ」
予想だにしなかった兄の反応にダンテが刮目する。しかしすぐに眉を顰めた。奇天烈な兄の発言をそのまま飲み込むべきではない。この場合、理性的なのかそうでないのかが分からない。
「誰が逃がしたかではなく、なぜ逃げたか、だ。前の折檻でネロの心は完全に折れていた」
「……とか言って、実は手加減したんじゃねーの? オニイチャン」
「いいや……」
ダンテが片眉を上げる。バージルは本気で思案している。
「あんなに可愛い子だ。誰かに誑かされているんじゃないか……」
本気で思案しているらしいがやはり思考の回路は子煩悩に振り切れている。振り切れすぎてしまって針とバネはおしゃかになっているらしい。
「愚弟。ネロを連れ戻して来たら、またあの子に会わすことを考えてやらんこともない」
ダンテが牙を見せて笑う。
***
Vの尻尾の先がネロの顎下を擽る。
「やめろよ」
顔を逸らしたネロの顎を掴み引き寄せる。擽るのを止めた代わりに、頬の曲線に沿わすように撫でる。
「ネロ、舌を出せ」
「……こうか?」
「うん……」
Vの血潮が漲るように真っ赤な舌と、それより幾分色が薄いネロの舌が触れ合う。先端同士が恐る恐るくっつくと、Vが目を細める。チリ、となにかが燃えるような音がしたと思うと、二つの舌の表面で紋様が浮かび上がっていた。
「契約完了。これでお前には俺意外が触れることもできない」
「ん」
再び舌を絡めようとしてきたVの口を手のひらで塞ぎ、もう片方の手をグーパーとする。己の加減を確認しているような仕草だが、いまいち腑に落ちていないのだろう。眉間には皺が寄っている。
「ネロ。俺は晴れてお前のサーヴァントになったんだ。誓いの口付けくらいさせてくれ」
「なあ。俺会いたい人がいるんだ。キリエって言うんだけど」
ネロから出た名前に、Vはあからさますぎるほどに顔を顰めた。悪魔の尖った爪が手のひらに食い込むほど拳を握りしめ、ギリギリと音が聞こえそうなくらい歯を食いしばる。そのVの様を無言でネロは見上げている。やがてじわじわとVの表情が弛緩した。いつもの人を食ったようでありながら穏やかな笑みに戻ったが、そのこめかみには血管が浮いている。
「ネロ、いずれな」
「いつだよ。ハッキリさせろ」
「じゃあ、百年後」
「百年……約束だぞ」
人間の寿命すら知らないいたいけな悪魔の子を前に、Vはニッコリと笑い今度こそネロに口付けた。