なつやすみ


プロローグ

蝉はもう頭の中で鳴いている。
うだる暑さとはいうが文字通り湯で茹でられるような心地にスネイルは軽トラ内の気温がとっくに己の融点を超えたことに気付いている。最早四肢は芯を失いぞうもつは溶けて次は沸点で天に昇るかの域だが一方で腕は正確にMT車のハンドルを握り繰っている。
エアコンが壊れた八月の軽トラは人を殺す。
スネイルは冗談抜きに確信する。

ようやく家に着いた時には、頭から水を被ったような有様だった。「メガネが本体」とプリントされたTシャツは汗が絞れるほどであり、短パンも同様である。買い込んだ荷物を両手に持って縁側にどっさり置くと奥から割烹着の女性がトコトコ歩いてきた。
「ありがとぉ、暑かったでしょお」
「いえ」
茹でった頭はおかしな遠慮をさせる。
「妻はどちらに?」
額の汗を手の甲で拭いながら問う。買い出しから帰ってきた自分をいつもなら真っ先に迎えに来るはずなのに、今日は姿が見えない。
「それがねえ」
冷凍物を選り分ける女性ーースネイルの義母にあたる彼女は、呑気な調子で言葉を継ぐ。
「どっかいって、帰ってこないのよ〜」
冷や汗がさあっとスネイルの背中に滲む。
どぐんどぐんと心臓が重く血液をポンプして、負担のかかった血管に警鐘を鳴らすこめかみがキィンと痛む。あれだけ暑かったのが嘘のように足先から冷えていく。落ち着け、落ち着け、と唱えれば唱えるほど湿った土のように不安が足元から募っていく。
「あ、」
押し殺しきれず漏れた音をスネイルは咳払いで誤魔化す。義母は大して気にした様子はない。
「すみません、少し、探して、きます」
「そうしてあげて」
踵を返し、歩き、義母から見えない位置に来るとスネイルは走った。山、川、ひまわり畑。ここは、彼女の記憶のトリガーになるものが多すぎる。

***

カミツキガメが怖いから泳げない、と泣く5歳の子をレイヴンは抱っこして一緒に川へ入ってやった。今はすっかり瞳をキラキラさせて水中に夢中だが、浮き輪の紐を離すと怒る。今度は別の子が泣いている。偶然通りかかった錦鯉が怖かったらしい。気分を変えるために今は橋の上から4メートル弱の飛び込みを順番に楽しんでいる。
「ねえ、あのひとだれー?」
スーパーマンになりきっていた少年が不意に宙を指差す。魔法少女を目指す少女を抱っこして今まさに飛び込もうとしていたレイヴンはついと顔を上げる。
にっこりと微笑む。
「私の、好きなひ、」
と、とは言い切れず、押し潰すような抱擁で言葉は遮られる。直前で少女をおろした為子どもを巻き込むことは避けれたが、子どもたちはからかいの的を見つけたとすっかり大はしゃぎだ。でけー!とか、らぶらぶだ!とか、とにかく大盛り上がりである。
なんだかんだ、レイヴンも満更でもない。
「スネイル、どうしたの?……スネイル?」
「…………」
あ、怒ってる。
理解した次の瞬間、
突き飛ばされた。

(落ちゆくなか、眉間に皺を寄せた旦那様に手を振る)

一話

「じゃあ部長のとこ毎年夏は海外の避暑地に?いいな〜!」
妻は体が弱いので、とスネイルが淡々と述べると部下は目にハートを浮かべる。理想の旦那像を目の当たりにして仰け反らんばかりだ。
サントリーニの断崖で、愛を誓い合うご夫婦……ああ、なんてロマンチック!
「今年はどこに行かれるんですか?アルプス?ニュージーランド?スイス?」
「◯◯県の妻の実家です」
「へ?」

***

別にいいのだ。
土壁の日本家屋とか、孫圧とか。最寄りのスーパーまで車で30分とか、管理する人間がいなくて草で覆われた一車線のカーブミラーとか。
大事なのは、母親、家族、家、卒業アルバムーー独立傭兵レイヴンから程遠く、且つ今の彼女を構成するものたち。彼女の記憶を埋めて薄めるのは、表裏のそれらだと確信している。
いざ来てみればどうだ。
地平線を焼き尽くさんばかりの夕焼け。星系を連想させる川のみなも。果てのないひまわり畑。どれもあの世界を彷彿とさせるもので満ちているではないか。
正直片時も目を離したくなかった。だがそうもいかない。今更一回り年下の妻に依存する旦那など流行らない。

あのあと仕返しと称し多勢の水鉄砲による猛攻でずぶ濡れにされた私は、夕暮れのサイレンをきいてそういえば連れ戻しに来たのだったと思い出すまで川遊びに付き合わされていた。
子どもらは何故か家の縁側前まで着いてきた。この緩さがどうにも慣れない。
「ねえねえメガネー!もっかいまわすのやってー!」
「嫌です」
ケチだ!と叫ぶ子どもを見てレイヴンがくすりと笑う。
本当によく笑うようになった。

***

実際、スネイルがこんなにも子ども相手が上手いと思わなかった。適度に対等に扱い適度にあしらうスネイルに、子どもたちはよく懐いた。
今もねえねえと両手を両側から引っ張られながら歩いている。抱っこして、抱っこして、と繰り返す少女が私の旦那様に恋していることなど、とっくに気付いている。
「ねえねえ、どうしてこのひとと結婚したの?」
でかいしこわいしメガネなのに!と笑いながら付け足した子どもの後をスネイルが少女を抱き上げたまま追い回す。くすくす私が笑ってると、顔を火照りで赤くした少女がスネイルの耳に何か囁いた。周囲の子供達も彼の元に集まってきた。
スネイルがうっそりと、この場に不釣り合いなほど綺麗に微笑む。
一抹の不安が過ぎる。
何を言ったのだろう。

***

「おねーちゃんのどこがすきなの?」
子ども特有の皮肉にも捉えれられてもおかしくない曖昧な言葉。
夕暮れから切り離された笑みが頬に浮かぶのがわかった。

あの駄犬は私を殺した。企業を殺した。何にも許されない大罪を犯した。
だが、現世で、この害獣を下したのは私だ。
何も知らずに私を愛し、下り、仕えている。
これは復讐だ。

***

「秘密です」
「「えー!」」
「当ててみなさい。当たったら教えてあげます」
「かみ!」
「かお!」
「わかい!」
「貴様ら……」

メガネが怒った!
結局なにを言ったのかはわからないまま、スネイルと子どもたちはまた鬼ごっこを始める。その光景といえば、平和の一言に尽きる。

私は微笑んでいた。微笑みを浮かべていた。
なにも不満なんてない。なにも。
でも、たまに、
頭が痛む。
なにか、ぽっかり抜けた穴の空虚に襲われる。
不安で不安で堪らなくなる。
ねえ、スネイル。
私たちこんなにも幸せなのに、
おかしいね。

(夕焼けに赤く照り付けられながら、必死に叫ぶ蝉の警告を分からないふりする)

二話

結局、子どもらは毎日家まで来るようになり、くわえて、申し訳ないからと手土産片手に挨拶に来た奥様方も田舎に似つかわしくない“メガネが本体”のナイスミドルに虜にされ、なにかと理由をつけて訪れるようになった。
「いいわねぇいいわねぇ、あんなハンサム見てるだけで若返りそうだわ」
レイヴンはマダムのうっとりした横顔をよくよく観察し、再現してみた。うっとり。子どもらにもみくちゃにされていたスネイルがぎょっとする。
「なんですかその顔は」
「ごめんなさい」
「今更私に見惚れる振りをしてどうなるのです」
レイヴンはきょとんとする。
「ずっと見惚れてるよ」
「……」
キャー!と上がるマダムたちの歓声。
スネイルは思う。田舎の欠点は、プライバシーが無いところだ。今のは、禁欲生活三日目に与えられていい刺激ではなかった。
「ねえ二人共、農協まで卵のおつかい頼めるかしら?」
丁度ひょっこり現れたレイヴンの母親に完璧なタイミングですなんて言えない。
「あら農協で?あそこ高いわよー」
「でもねえ、もう無くなっちゃって…スーパーは遠いし」
とか会話が繰り広げられている内に、スネイルはレイヴンに目配せする。立ち上がったレイヴンはもうスネイル追跡モードで、ちょこちょことその後ろをついていく。
「あらお二人とも、デートかしら」
「うん、デート」
「お熱いわぁ」
縁側で手を振っている彼女たちに会釈し、二人は駐車場のある裏手に回って軽トラックに乗り込む。むわっ、と限界まで蒸された暑い空気が気管を焼きながら腹に下っていき呼吸さえ苦しい。
だが、乗ってすぐにスネイルはレイヴンの顎に指を添えて上向かせた。
「きす!?!」
ばん!!!と音がして、振り返るまでもなくいつの間にか着いてきていた荷台の子どもらが目をキラキラさせているのが分かる。
スネイルは深く深くため息をつくと、ぶにゅ、とレイヴンの頬をタコのように潰した。
「ふぐ」
「……しっかりつかまっていなさい。振り落とされても知りませんからね」
獣の咆哮のようにエンジンを吹かす。レイヴンの頬から手を離したスネイルは、ハンドルを握ってアクセルを思いっきり踏み込んだ。AC操縦に比べたらオモチャみたいなものなのだ。

***

三時間に一本、最終は十七時台のローカル線。レイヴンの実家から車で十分弱の終着駅。利用する人間はそれなりにいる。だが見知った顔ばかり。改札も切符売り場もない駅のホームに立っているのは、欠伸をする若い車掌。やることはないが、取り締まらなければ無賃乗車もそれなりにいるので立っていなくてはいけない。
しかし暇。

と、湿度など知らない爽やかな風が吹いた。
振り返ると、もう後ろ姿。

彼が駅の隣の農協に入っていくのをぼんやり眺めて、次の瞬間には忘れた。

***

320円の卵。そして、一人一つ200円までのお菓子。
スネイルとレイヴンは手を繋いでいる。
ヒューヒュー!とからかわれたが、二人が満足そうなので子どもたちも次第にからかうのに飽きた。
店を出ると、レイヴンの袖がくいっと引かれる。
「かわって」
幼い女の子の、意志の強い無邪気な瞳。
レイヴンはにっこり笑って、するりと手を解く。代わりに女の子の小さな手がスネイルに絡まり、少女は嬉しくてぴょんぴょん跳ねる。
後ろからそれを眺めていると、
あれ?なんだか嬉しい気がしてくる……。そしてこれは、いけない感情な気がする。
広げた自分の手のひらを見て、思案する。
「じゃあ私と手を繋ごう」
無遠慮に絡み取られた、手。

その声、声は、
「久しぶり、戦友」

(頭が痛い)

三話

「久しぶり、戦友」
頭が痛い。
私はこの人を……この人を、なんだ?今会ったばかりの他人。でも繋がれた手が熱い。頭の中で誰かがうるさい。自分だ。やめて、騒がないで……
手を振り払う。一瞬瞠目した彼はすぐに柔らかい笑顔を浮かべる。
「戦友、私が分かるか?」
またそれが伸びてくる。逃げられない。逃げてはいけない。ちがう、ちがう……

触れられる寸前で、スネイルが男の手をパシッと弾く。
「……やあ、上官殿」
「黙れ」
スネイルが、怒っている。
横目で彼を見上げる。こめかみに血管が浮いて、本気で怒ってる。誰のために?私のため?どうして?
スネイルに腕をグイッと引かれる。私を引っ張る彼が踵を返す。
「あなたと話すことはありません。いきますよ、レイヴン」
「その名で呼ぶのか?」
彼が足を止める。ぎろりと睨むその横顔を見ていると不安がざわりと湧いてくる。
「戦友を埋めたあなたが、まだその名前を使うのか。とんだ未練だな」
「黙れ、と言いましたね?」
気迫に子供たちが怯えている。遠巻きに見ているスタッフたちも不安そうだ。私は、私は……

目の前の体に縋る。
「スネイル、あたま、いたい……」

膝から崩れ落ちそうになる体を、寸で受け止めてくれたのはスネイルだった。
もう一人の彼は咄嗟に動こうとしたようだ。頭痛で霞む視界で目が合ったような、合わなかったような気がする。
「……戦友が苦しむのは私の本意ではない」
再びあの手が伸びてくるが、支えてくれているスネイルがそのまま私を横抱きに抱き上げる。
「では失礼。二度と会うことはないでしょう」
スネイルの声。私は顔を伏せたままひたすら彼に縋った。
頭が、痛い。
***
何故居場所がバレた?
運転している手と逆の頬杖をつく手がざわつく胸内と連動して勝手に拍を叩く。

助手席の顔を伏せているレイヴンになにか言葉をかけねば、と思えば思うほどそれは定まらない。
「ごめんなさい、スネイル……」
結局、話し出したのは彼女の方だった。ちらりと視線をやる。まだ顔を伏せている。大きくため息をつくとびくりと華奢な肩が揺れる。
「謝る理由が分かる前に謝らないでください」
「ごめんなさい……」
「……」
沈黙。今更気まずいと感じる間柄でもなかったが、今は別だ。

家の裏手に駐車してすぐ、荷台に乗っていた子どもたちはレイヴンを心配してその周囲に集まった。子供の無邪気さはこういう時に理に働くと感じる。嘘でも笑顔を浮かべる彼女を見ているとホッとする。
運転席からおりて、助手席側に回る。……なにやら見覚えのない大きなバイクがある。
嫌な予感、とはこのことだろう。
軒先から聞こえるキャーキャー黄色い声に気づいたのは、その直後だった。
「やあ、おかえり」
やはり、いた。縁側に座って麦茶まで飲んでいる。マダム達を円で従えるその姿になるほど圧倒的に不利なのはこちらかと理解する。
「田舎は便利だな。抜け道が山ほどある」
レイヴンを見ると、子どもらの手前か毅然に立ち男の笑顔を睨み返している。V.Wはそんな彼女に笑顔で手を振る。かと思えば、うすら目を開いてこちらに視線をやる。
「殴るも殺すもできない。現世は存外不便だな、V.U?」
「断っておきますが、私は両方やりますよ」
ぱきぱきと指を鳴らす。

など牽制し合っていると、私の後ろで隠れていたレイヴンが「母さん?」と不思議そうに呟いた。見ると、奥から服の山を抱えてよろよろと歩いている。
第二の嫌な予感だ。
「ねえねえ、お父さんの服これしかなかったっけ。ラスティさんには小さい気がするんだけど…」
「はあ!?」
悪夢か?
「あ、そうだ旦那さんの服を貸してあげればいいのね〜」
「嫌です!!」
「ということで、今日からよろしく頼む」
V.Wは爽やかに差し入れのきゅうりの漬物を手でつまみながら私たちに片手をあげた。
嘘だろ、どこで間違えた、私の完璧なプランが……
気付けば私を見据える奴の顔から笑顔は消えている。
「君たちの夏休みが終わる前に、私は戦友を取り戻す」
不安そうなレイヴンが、威嚇するみたいに舌を出した。

三.五話

なあ、戦友、戦友、戦友。

元第二隊長は決して私と戦友を二人きりにさせなかった。当然だ。私が彼でもそうする。現世で彼女に最初に会ったのが、私なら。
茶化したいところだが余裕もない。彼らの夏休みが終わればまた日常が戻ってくる。そこにまで介入できるとは流石に考えていなかった。戦友を取り戻すチャンスは今だけだ。

蚊帳の中で抱き合って眠る彼らを、寝室の入り口で腕を組んでじっと見下ろす。
初日にその中には出入り禁止を命じられた。
夫婦の線引きか。

まあ、入るのだが。

「せんゆ〜」
「ころしますよ」
二人で挟むように戦友を抱きしめるとすぐに向こう側から声が返ってきた。無視してむにゃむにゃ言っている戦友に頬擦りする。
「戦友は相変わらず小さいな…」
「どこを触って言っているのです!?」
「頭だが」
くるしい…と目を瞑ったままの戦友が漏らす。そうかそうかと抱擁の力を強めればスネイルも同じことをする。
「戦友、閣下は君が大好きならしいぞ」
「知ってる…」
「双方黙りなさい」

気付くと三人で二度寝していた。

***

ぽりぽりぽり。
時刻は十一時二十二分。すっかり遅れた朝食の場では、レイヴンが好物である胡瓜の糠漬けを齧歯類のように食す音が一番目立っている。
スネイルは慣れた調子で納豆をぐりぐりかき混ぜている。その向かいで、ラスティは蓋を開けただけの納豆の前で冷や汗を滲ませている。
「せんゆ、これは……」
「どうしたの」
「Rotten(腐っている)」
「人の好意を無碍にする気ですか第四隊長。食べなさい」
スネイルが笑みを浮かべて男に箸をつきつける。
ラスティは恐る恐る納豆に箸をつき入れ、一口口に入れる。
次の瞬間その目が輝きに満ち、あっという間に完食。
一連を見ていたスネイルは、チッと舌打ちする。
「あなたのそういう要領がいいところ、昔から非常に腹立たしいです」

***

「ねえねえ、それで、どうなったの?」
「私と戦友は壁越えを果たした。戦友のブレードが敵を叩き切ったんだ。こんなふうに…」
縁側のラスティを囲んでいる子どもたちはラスティの話に聞き入っている。丁度買い出しから帰ってきたスネイルはため息をつき、隣にいるレイヴンに荷物はいいから先にシャワーを…と言いかけて、その妻がいないことに気づく。
子どもたちの輪にいるではないか。
「レイヴン!!」
「スネイル?」
どうしたの?と見上げてくる無邪気な瞳を前にグッと言葉に詰まる。
「に、荷物を運ぶのを手伝ってください」
「わかった」
とてとてと歩いて行く背中はいつもと変わらないようだ。ホッと息をつく。
「さあ今日の話は終わりだ。鬼ごっこしよう!誰が鬼だ?私が鬼だ!」
わー!と子どもたちが蜘蛛の子散らしたように走り出す。
「何も思いだした様子はない。だめだな。どんな手を使って戦友を騙しているんだ?」
ケロッとした様子の第四隊長は子どもを追いかける様子もなく両手を組んで肩を伸ばしている。
「いいから子どもらを追いかけてきなさい、鬼。そしてそのまま帰ってくるな」
「ひどいな」
それでも追いかける様子はなく、欠伸をする。どうも、V.Wは子どもに興味がないらしい。

***

「戦友、ハグしてもいいかい?」
レイヴンが困ったようなスネイルを見る。彼が両手で大きくバツを作る。レイヴンが首を振る。
ラスティは財布を取り出す。
「三万払うから」
「尚更ダメです」
「五万」
「金額の問題でありません」

***

「ラスティじゃだめなの?」
スネイルに恋している少女は無垢。それでも、「優しいお姫様」の存在が「私たちの恋」の邪魔になっているのも何となく分かる。
だから、夕焼けが眩しい縁側できいてみた。

みんなは最近現れた王子様に夢中だけど、私には分かるの。彼はルビーみたいな宝石の瞳以外は絶対にいらない人だって。

レイヴンはにっこり笑う。
「彼じゃないと、だめなの」
女の子の眉が下がる。
「どうして?」
「えっと……」
「おや、もうお母さんたちが心配する時間なんじゃないか?」
出た出た。少女は小さな眉間に皺を寄せる。そして縁側から立ち上がると、男にあっかんべーして背中を向ける。
残されたラスティは、ぽかん。
「私、なにかしたかな」

***

「花火大会?」
「ええ。規模は小さいけどね」
それを見て今年は帰るのよねあなたたち、と戦友の母親が2人の方を見る。
「それはいつですか?」
「えーとね……明後日だったかしら」
「三日後だよ、お母さん」
戦友とその実母、という光景にもすっかり慣れたものだ。
しかし、今はそんなことよりタイムリミットが意外と近かったことに驚きを隠せない。
「そうか、三日か……」
本気で攫ったとして、果たして逃げ切れるだろうか……。
「不躾なことを考えていますね」
「さすが鋭いな」
「何を考えているの?」
「戦友にだけは後で教えようかな〜」
笑みを浮かべながら納豆をかき混ぜる。不思議そうな戦友もまた可愛い。
「今の内に逃げ帰る準備をしたらどうです?」
うすら笑いを浮かべる元上司。さてこっちは全然可愛くない。
「こちらのセリフだ」

四話

流石にそろそろ死ぬ。
ということで、その日の買い出しはクーラーの壊れた軽トラではなく片道一時間に一本のローカルバスで行われた。
だが、バス内のクーラーの恩恵を上回る不快な湿気。その日は天の底をひっくり返したような雨だった。
これなら軽トラでもよかったね、ええ本当に。
なんて会話をしながら、バス停でお互いもたれあう。トタン屋根が雨粒を弾く音だけが耳の中を占めている。
地面の香りが近い。レイヴンがくんくんと鼻を鳴らしていると、ピピピピ!とスネイルの着信音が世界を割るようになり響いた。
「はい、私です……え?」
スネイルと目が合う。深刻だとすぐにわかった。
「子どもが雨の中川遊びに行って行方不明、だそうです」
スネイルが目を揉む。面倒臭い、と小さく漏らした声は紛れもなく本音だろう。レイヴンはじっと彼を見上げている。
「この辺りにもつながっている川だそうなので、少し探してきます」
荷物を置いて雨の中走っていったスネイルの背中を見つめ、レイヴンは小さく手を振る。

ふと、

彼と、二度と会えないんじゃないかという不安が襲う。
立ち上がった拍子にぐしゃりと嫌な音がした。見ると袋から卵が落ちて潰れている。
「戦友?」
声のした方に振り返る。ヘルメットを右手に抱えたラスティが雨の中立っていた。
「あ……」
その後ろに、バイクが停まっている。
彼と二度と会えない。
買い物袋を放り投げて雨にむけて走る。
が、すぐに腕を引かれて、もみくちゃに転ぶ。
「戦友!逃げないでくれ……!頼む、」
攻防の末、敵うはずもなくレイヴンは地面に押し付けられる。
「戦友……」
頬を撫でられる。レイヴンは顔を逸らし、男に拒絶の態度を示す。
「戦友、私が、怖いか?」
雨粒が目に入ってきてレイヴンの視界は濁っている。だが男が笑っているのだけは見えた。
答えないでいると顔が近付いてくる。レイヴンとラスティの唇が重なるーー寸前で、男は襟首を掴まれ、少女から引き剥がされた。
憤怒の表情を浮かべたスネイルが、ラスティの横面を殴りつける。
地面に叩きつけられるように転がった男に、咄嗟にレイヴンは駆け寄っていた。
「帰りますよ、レイヴン」
冷たく言い放つスネイルを見上げ、レイヴンは首を振る。
「ラスティを置いていけない」
「レイヴン。私は、私からあなたを奪う人間は死んでもいいと思っています」
レイヴンは僅かに瞠目し、鼻血を拭ってスネイルを睨むラスティを見た。
「……置いていけない」
ふう、とスネイルの重いため息が耳に入る。レイヴンの肩がびくりと跳ねる。
「好きになさい」
男の足音が遠のいていく。彼女は顔を上げられない。
初めてスネイルではなく自分を選ばれたラスティに、一切の喜びは沸かなかった。目の前で唇を噛む最愛の少女の悲しみを招いてしまったのが他ならぬ自分であるという事実に、ただ雨の中打ちひしがれた。

(花火大会まで二日)

五話

しん。
と静まり返る朝餉の場。
否、訂正。
しーーーーーん、と静まり返っている、朝餉の場。
いつも並んでいる卵焼きは、無い。

箸の動きが遅く、肩を落としたレイヴン。その隣で、一見いつも通りに見えるがシステム的に朝食を口に運ぶスネイル。向かいで、真顔でひたすら納豆をかき混ぜているラスティ。
「行方不明の子、見つかってよかったわねぇ。まさか浮き輪でどこまでくだっていけるかなんて、本当に子どもは無邪気よねぇ」
返事がない。
レイヴンの母親は、各それぞれの顔を見て、
「あなたたち、喧嘩でもしたのぉ?!」
と、呑気な風を流す。
「…ううん」
「いえ」
「いや、」
三者三様それぞれの否定。
喧嘩ではない。
喧嘩ならどれだけよかったか。
「じゃあよかったわぁ」
母親の笑顔が眩しい。眩しすぎて目に痛くて、正直いらない光だ。そう三人とも思った。
***
恋のライバルが縁側に座ってずーんと落ち込んでいる。話を聞くと、彼女の王子様と喧嘩ではない喧嘩をしたらしい。
「けんかはね、さきにあやまったほうが勝ちなのよ」
胸を張ってアドバイスするが、ライバルは益々顔色を悪くして肩を下げる。
これは深刻だ。
「わかったわ。じゃあいっしょにあやまりにいきましょう」
「え、」
言うが否や手を奪い、引きずるように歩く。え、え、と困惑しながらもお姫様は後をついてくる。敵に塩……ではなく、砂糖を送るのも、たまにはいいだろう。
***
「スネイル、頼む。話をさせてくれ」
「何度同じことを言わせるのです?」
「全て私が悪いと分かっている。だが私のせいで傷つく戦友は見たくないんだ」
裏庭のもう使われてない井戸の前でなにやら話をする件の王子様二人を見つけた。私たちに気づくとはたと話を止める。
「ねえ、おーじさまがた?はなしがあるの」
ほら、と顔を伏せるお姫様の腰を叩いて促す。
途端、ぽろぽろぽろ、と宝石みたいな瞳が開かれたまま涙をこぼし、ラスティは目に見えてぎょっとする。だが、彼女の王子様は平然として見下ろしている。
「ごめ、ごめなさい、スネイル……」
「以前にも言ったでしょう。謝る理由がわかる前に謝るなと」
ちょいちょい、と人差し指で彼女の王子様を呼ぶ。不思議そうに彼は屈み、私と視線を合わす。

その横っ面を、思いっきり叩く。

「おひめさまがあやまってんだからッッふたつへんじでゆるしなさいッッ!このッとーへんぼくッッ!!」
ッしーーーーん!と空気が冷え、三人が口を開けて唖然としている。
「む、難しい言葉を知っているんだねお嬢さん……」
「いくわよ!」
ぽかんとしている王子様たちを置きざりにし、それ以上にぽかんとしているお姫様の手を引いてさっさとこの場から退散する。
ところで、とーへんぼくってどうゆーいみの悪口なのかしら?


(その、閣下……)
(……)
(災難だったな……)
(……)

六話

「ほんっとーに信じられない!」
短い腕を組んでぷりぷり怒る少女を前に、あわあわとレイヴンは狼狽える。誰も悪くないってことを伝えなきゃ……と焦れば焦るほど、この場に適した言葉が出てこない。
「あら、やっぱりあなたたち喧嘩してたのねぇ」
駄菓子を盆に乗せた母親が気付くと背後に立っていて、レイヴンは盛大に肩を跳ねさせる。相変わらず気配が無い人である。振り返ると、……なんだか母親もぷりぷりしている。
「全くもうあなたって子は……花火大会はそれじゃあどうするの?誰といくの?」
母親の言葉を聞いていた少女は子ども心に「そういう問題か?」と駄菓子の封を開けながらドン引きする。だがレイヴンは黙り込んでしまい、母親の言葉に馬鹿正直に答えを探していた。
しばし気まずい沈黙が流れる。その時間を終わらせたのは、レイヴンの母親だった。
「じゃあ、丁度いいわぁ!」
さっきまで眉間に皺を寄せていたのが嘘のように喜色に顔を輝かせ、レイヴンの母親はぽんと手を叩く。なんだか嫌な予感を感じながら飴を口に放り入れる少女と、一方でレイヴンは訳が分からずひたすら頭の上にハテナを作っていた。
***
そうして訪れた、夏祭り当日。朝からスネイルはどこかに出掛けてしまい、ラスティも二人きりになるのを避けるようにどこかへ行ってしまった。そのまま二人とも夕方まで帰ってはこず、結局レイヴンは一人きりで町役場の夏祭りに行くことになった。
しかし、その手には山ほどのうちわを持っている。
「こんにちはーこんにちはー」
レイヴンは、本来母親が任されていたうちわ配りボランティアを代わりにやっていた。
だが、そのロボットのようにひたすら同じトーンで繰り返される奇妙な挨拶に嫌な予感を感じた人々はレイヴンのそばにはまず寄りつかない。
夏祭り自体は田舎にしてはそれなりに規模が大きく、外部からもやってくる人も多い。出店もそれなりにある。だが、ボランティアを任されたレイヴンにそれらを楽しむ余裕など無く、ただ山ほどのうちわを持ってぼんやりするだけだった。
レイヴンは、なんとなく、寂しさを覚えていた。しかし、それを言語化できるほど彼女は自分に優しくなかった。なんとなく心にぽっかり空いた穴を持て余すしかできなかった。その一方でこの穴を埋める方法だけは彼女は知っていた。そしてそれは叶わないことも分かっていた。現実がレイヴンを余計に悲しくさせた。
そんな時だ。
「こんにちはーこんにちはー」
「ね、これなんて読むの?」
「こんにち……え」
思考停止状態だったレイヴンが思わず反射的に振り返る。知らない男がいた。よく日焼けした肌にタンクトップ、ここらではあまり見ない風貌だ。外部から来た人間だろう、とレイヴンは解析する。
「えっと…うてんちゅうし?」
「へー!俺、漢字弱くて。助かったわー」
助かった?なにが?
レイヴンの困惑をよそに、男は話を続ける。
「てかさてかさ、俺の後輩きてんだけどソイツ大学生でボランティアとかめっちゃ向いてて。代わってもらう?呼んだらすぐ来ると思うんだけど」
「えと…」
「でさー、俺と祭り回ろうよ。かわいいのにまじ勿体無いって」
レイヴンは、完璧に、混乱していた。
紛う事なきナンパをされているのだが、彼女にそれが理解出来るはずもない。口を開けてぽかんとするレイヴンにナンパ男も流石に怯んだ様子を見せる。
「まあいいじゃん、とりあえず行こうよ」
肩を抱かれる。そこでようやくレイヴンは、自分が今どんな感情を向けられているかを理解した。
なんとかして断らないと、と思った次の瞬間、肩を抱いていた男の手が剥がれた。
「いででででで!!」
振り返ると、さっきの男が手首を掴まれ腕を捻りあげられて悲鳴を上げている。
「誰に断りを得て妻に触っているのですか?」
「痛い痛いッ!離せッ!畜生、亭主持ちなら最初からそう言えよッ!」
唾を吐いて去っていった男の背中を、レイヴンはもう見ていなかった。隣に立つ男をじっと見上げる。

来ていたの?そんなことより、ああ、やっぱり普通より背が高いんだなぁ。背中も広いなぁ。腕も太いなぁ。
どうしたら、仲直りできるんだろう。
「スネイル、わたし……」
自分から耐えられず登場しておいて、スネイルは気まずそうに顔を背ける。かと思えば、レイヴンに背中を向けて歩き出した。逃げ出したのだ。
だが、彼女はすかさずその一回り大きな手を掴む。
謝る理由、もう分かるよ。

「スネイル、あなたを傷つけて、ごめんなさい」
「……」
「私、あなたが好き。あなただけが好き」
「……」
「声が好き顔が好き。体が好き全部が好き。髪の色が好き目の色が好き鼻が好きメガネが好」
「あーもう分かりました!私が悪かったです!これでいいですか!?」
スネイルがやけくそに叫ぶ。ちらりと横目の視線がぶつかると、にこ、とレイヴンは微笑む。
いちゃつくんじゃねぇよ!と野次。
「スネイル、愛してる」
「……」
「だからうちわぜんぶあげるね」
「いりません……」
「仲直りしたのか?」
気付けばわたあめ片手にそばに立っていたラスティに二人は同時にぎょっとする。そんなことは気に留めず、ラスティはニコニコと笑みを浮かべて屈みレイヴンに視線を合わす。
「じゃあもうフェアプレーに戻ったな。戦友、花火は私と見よう」
「今度は鼻を折りますよ?」
「ごめんラスティ、」
レイヴンの言葉に、二人の男がポカンとする。
「私、ここでスネイルと見る」
レイヴンは繋いでいたスネイルの腕に抱きつく。
「……参ったな。仲良し三人組とはいかないか」
ラスティは両手を上げ降参のポーズをとる。そして、私の負けか、と呟くと、レイヴンに向けてウインクをする。
「じゃあ、邪魔者は退散するとするよ」
ラスティが人混みに消えていくのを見届けて、レイヴンは繋いでいた手を恋人繋ぎに組み替えた。
「スネイル、」
「…なんです」
「呼んだだけ」
「なんですかそれは」
でも、喧嘩してたら呼ぶだけもできない。幸せを噛み締めていると、なにやらアナウンスが鳴った。音質が悪過ぎて全く聞き取れない。
人々が一斉に空を見る。レイヴンとスネイルも釣られた。
地元の盆踊り曲がとぎれる。
ひゅるるるる……と火の玉が昇り、
弾ける。
わあわあと歓声が上がる。
ふと、スネイルは、繋いでいた手がほどけていることに気づいた。
隣の妻を見る。
目を見開き、空を見上げている。
***
「あ……」
夜空を焼く閃光。
私、これを、
以前、どこかで、

視界を、覆われる。
大きな右手。
こてん、と頭の後ろがスネイルの胸元にぶつかる。
彼の顔は見えない。
「レイヴン」
花火の音にかき消されない鋭さを持って、声が私を呼ぶ。
「あなたは、死ぬまで私の唯一だ」
いいですね?

私は、私は、私は、

こくりと頷く。
わたし、は、
「スネイルがいれば、いい……」
彼の手がどく。
花火だ。
ただの、花火だった。

(なつやすみ終了?)

七話

計一週間の滞在とはいえ、あくまで帰省だった為まとめる荷物も一人カバン一つで済んだ。中身の半分が服のそれを車のトランクに詰め込み、レイヴンは額の汗を拭う。
一方、帰省ではないが、結局服を含めた日用品を全て借り物(貢物?)で済ませたラスティは、ライダースーツにヘルメットという身軽な格好で爽やかに笑う。
「いやあ短いが君たちのおかげで実に充実した夏休みだったよ、感謝する。どうだい第二隊長、握手でもするか?」
「負け犬の遠吠えですね。それと、お断りです」
スネイルがハンッと鼻で笑っていると、背後から子どもに強烈な頭突きをされる。グエッと呻いて崩れ落ちた彼にすかさず彼らが集る。
「なーメガネ!来年も来るの!?」
「もう帰っちゃうの!?」
腰を押さえながらなんとか立ち上がった彼はメガネを押し上げ子どもらをギロリと睨みつける。
「帰ります…子どもの相手はもう懲り懲りです…!」
ひでー!と笑う子どもらを本気のフォームで追いかけまわすスネイルにクスクスとレイヴンは笑っている。笑えている。彼女は、喧嘩を経て彼との時間をより一層幸せだと噛み締めるようになっていた。
「あーイケメンたちが消えちゃう……夏も終わりね」
「ほんとねー」
実際、荷物の半分は今縁側で嘆いているマダムたちに握らされた土産だ。
「また来なさいよ、まめにね。で、次はいつ来るの?」
「また連絡するよ」
母親の小さな手を両手で握り、レイヴンは微笑む。
「お母さん、私、スネイルと一緒になれて本当に幸せ」
母親が、目を丸くした。どうしたのだろう、と不思議がったのも束の間、すぐに表情を崩して「そうなのね」と呟いた。てっきり完全に肯定されると思い込んでいたレイヴンは小首を傾げた。

「しかし、変わるものだな」
「何が」
不意打ちで撃たれた水鉄砲を紙一重で躱したスネイルに子どもたちの歓声が上がる。
「あなたたちだよ。二人とも人間臭くなった。変わらないのは私だけだ」
負けた男は首を振ってため息をつく。スネイルは斜め上を見て思案し、ややまって言葉を吐いた。
「変わらない?」
「戦友ー!」
無視されたスネイルがチッと舌打ちをする。ラスティは助手席に乗り込もうとしていたレイヴンに走り寄ると、内緒話をするように囁いた。
「これで本当に諦めるから、最後にハグさせてくれないか?三万は払わないから」
「ラスティ……」
スネイルの方を見ないまま、レイヴンは首を横に振る。
「ごめんね」
「参ったな……完全に私の負けだ」
「あなたのことは好きだよ……たぶん」
「はは、悲しいなぁ」
さて。とラスティがフルフェイスヘルメットを被る。その表情が分からなくなる。
彼が、少し離れたところにいるスネイルに振り返る。
「なあ、スネイル!」
「なんです」
「たしかに私は負けたが、

果たしてあなたは勝ったのか?」

不穏な一言に、スネイルが目を見開く。
ラスティがレイヴンの目の高さに屈んだ時、彼はもう走り出していた。
だが、言葉より早くは辿り着けない。
「待っーー」

「      」

「あ」

レイヴンの瞳から光が消える。光だけじゃない。光も、この夏に築いた情動も、全てが消える。
スネイルが彼女の肩を掴み、名前を叫ぶ。だが返事はない。
振り返れば、あの男はバイクごともう消えていた。
残されたのは、この青空を割るような慟哭だけだ。
「あああ ああああああ ああああああああああ」
崩れ落ちたレイヴンの異様さにスネイル以外の誰も側に近付けない。
「……ター、ルター、ウォルター!!!」
その叫びにスネイルは愕然とする。
あの男は、最後に最悪のトリガーを引いていった。
「あああ゛ぁ゛あ゛ぁぁ゛ああッッ゛!!!!」

最終話

「でも、最近珍しいわよねぇ、
あだ名で呼び合う夫婦なんて」
この家にもう三人はいない。
レイヴンの母親がうつらうつらと舟を漕ぎながら、「そうねえ」と聞いているか聞いていないか分からない調子で相槌をする。
マダムの一人が、頬に手を添えてため息をつく。
「私、いよいよあの子をレイヴンだなんて呼べなかったわ。スネイル、なんてのも。そう呼んでって言われたけれど……なんだかあの子たちの世界を壊すみたいで」
「そうねえ」
「娘が発狂したのに、呑気ねぇあなた。秘訣はあるの?」
目が開く。娘のルビーアイと違う黒の瞳は、最初から光なんて宿していないように映る。
「私はねぇ、思うの」
きっともう、壊れているんだって。
「……そうなの?」
「そう思えば、怖くないでしょ」
「なーんだ」
「じゃあ分からないのね」
「ええ」
ただ、のんびりとした時間だけが流れていく。

***

『全て思い出しました』

仕事を終え家に帰ると、いつもの出迎えはなく、その代わりダイニングテーブルの上に一枚見覚えのある文字のメモが置いてあるのをスネイルは見つけた。

あれから丁度一週間が経った。当初はスネイルの問いかけに頑なに口を噤み、それ以外は一見以前と同じように振る舞っているように見えた。
だが、今日、出て行かれた。
口を横一文字に引き結んだまま、スネイルはソファーに座る。

今頃、妻は飼い主のもとにいるだろう。己の命よりも主人を守る。それは世を超えても。考えれば、初めて知った時からそういう女だった。

ここ毎日そうだったように、今夜も彼女ためにスネイルが買ってきたケーキは、メモと一緒にゴミ箱へ捨てられた。

***

「そういえば部長!夏休みはどうでした?」
ニコニコと書類を持ってきた部下が他の部下の手で後ろに押し込まれる。
「いやぁ部長!ようやく涼しくなってきましたねぇ!」

なんだかんだ妻煩悩だったスネイルが、現在離婚調停中だという噂で社内は持ちきりだった。
「変な気は使わなくて結構。夏休みは楽しかったですよ。ああ、土産は机に置いておきましたのであとで分けてください」
「その……すみません」
先ほど笑顔だった部下が申し訳なさそうに頭を下げる。
「謝る理由が分かる前に、謝らないでください」
「いや、理由はわかってるつもりなんですけど…」
「ええ。言いたかっただけです」
部下たちが顔を見合わせる。スネイルはもう彼らを見ていなかった。

***

家に帰って、まず(一人で住むには広すぎる)と感じた。
週末にでも不動産屋を呼ぼうかと思案しながら、ネクタイを解いてスーツをソファーに放り投げる。シャツだけになったスネイルはそれらが皺になるのも構わずその上に仰向けで倒れるように寝転んだ。ダイニングテーブルにも寝室にも酒缶が溢れていて、まるで自分の醜態を目にするようでそこには近付きたくも無かったからだ。キッチンにもゴミが溢れている。レイヴンがいなくなって二週間、生活は荒れに荒れていた。
このまま過ごせば、自分はどうなるのだろうとふと考えてみる。酒缶に埋もれて死ぬのか。まあ前の世よりはマシかと自嘲する。あの駄犬に命を奪われたあの日よりは。
レイヴンと出会い、結婚して、かれこれ二年が経つ。二人どちらかが死ぬまで続けようとしていた復讐は存外早く終わった。
だが一つ、スネイルには不可解なことがある。
何故、レイヴンの記憶が戻った時点で、彼女を手放さなかったのだろう。
その時点で、私の計画は破綻していたはずだ、とスネイルは天井をぼうっと眺めながら考える。どうして、レイヴンが去るまで、なにをケーキまで買ってご機嫌取りに走っていたのだろう。
情けなくて、愚かだ。
分からないふりをしているのは理解している。
認められない。認めたくない。
私は、私は、私は、

「ただいま」

***
信じられない気持ちで飛び起きる。最近ろくにセットしていないくしゃくしゃの髪の毛から一房それが額にかかる。
リビングの入り口に、はにかむレイヴンが立っている。
最後に見た日となにも変わらない姿で、
元気そうだ。
最初にそう思った自分が馬鹿らしくて、苦々しく顔を逸らす。
レイヴンが歩み寄ってくるのが足音で分かった。頬に手を添えられる。その温もりに叫び出しそうになる。
「“   ”、泣かないで」
思わず顔を上げる。
今世での名を呼ばれた。
スネイルと呼んでくれ、と頼んだのは恋人になってすぐだ。彼女はそれを守り続けていた。
なのに、なんで、
「“ ”」
ああ、
私の名前を呼ぶ彼女の顔を見て、悟る。
妻はもう、“独立傭兵レイヴン”ではない。
「ウォルターに会ってきたの」
ぽろぽろと溢れる涙を彼女の指で拭われる。寂しくないと言えば少々嘘になる。
「私はもう、レイヴンでも、621でもない。そして、」
ーーあなたも。

ああ、
そうか。
そうなのか。
なら、何故帰ってきた?何故まだ私の涙を拭う?
いくらでも言葉は出てくる。なのに一つも口をつかない。答えが全て分かりきっているからだ。
「ねえ、“ ”」
「……なんです」
「愛してる」
「人を散々待たせた挙句……そんな陳腐な台詞を求めるな」
「ふふ。あなたはちがうの?」
私は、
わたしは、
「……だいきらいだ、“ ”」
「じゃあ、また愛してもらえるように頑張るね」

そこにもう、レイヴンとスネイルーーーー心を無くした傭兵とその復讐者はいない。
失った者が、失われた者を、ただ夜の隅で慰めていた。