おあいこ
一郎。すげぇ奴。拙僧が認めた男。熱血漢。極楽行き。
左馬刻。まっしぐら。意外な熱血漢。拙僧を可愛がっている。多分、極楽行き。
ささら……ささら?こいつはなんだ?酷薄……いやちがう。その言葉はこいつには窮屈だ。のらりくらり……ちがう。義理人情……ちがう。
「くうちゃん」
拙僧を……拙僧のことが……
「俺と一緒に地獄おちてや」
「“媚びだけで生きてきた猫みたい”」
キッチンの流しに立つパンツ一丁の簓は、シェービングマシンの電源を止めて「なにそれ?」と曇りまみれの鏡越しに拙僧に聞き返す。
「テメェが初めて拙僧と会った時に言った言葉」
「へー」
パチッ。ウィーン、ジョリジョリジョリ。パチッ。ワンルーム木造アパートの中で無駄に最新世代のシェービングマシンが、コンセントを二十四時間挿しっぱなしの充電器に戻されるのを、ピントがぶれたりぶれなかったりする視界でぼーっと見ていた。簓が投資する基準はいまいち分からない。シェービングマシンとか、このマットレスとか、休みの前に拙僧を連れて行く飯屋とか。なのにボロアパート住みだし、布団カバーはつけないし、コンドームはけちる。
簓は濡れた手をボクサーパンツでぐいっと拭いながら「でぇ?」と拙僧の方に振り返った。
「なんでそれ今言ったん?根に持っとんの?」
「ん〜……拙僧がいくら媚びても一切なびかんだ男の夢、みたから」
「そうなん。誰?」
「うん。好きだったがや」
「ふーん」
「ん」
「俺は『誰や』って聞いとんねん、クソガキ」
側頭部を手のひらでぽん、と押される。そのままマットレスの上に倒れこむと、無駄に高級で上等なそれは拙僧の体をギシッと一度跳ね返した。感心。四方が黄ばんだ枕を胸に抱き寄せる。簓は拙僧の頭側に胡坐をかいて、部屋の中央に置かれたマットレスを囲むゴミと物の海に手を突っ込んで煙草を探し始めた。座った簓の腹筋が潰れて線になっているのがなんだかおかしくてくふくふ笑う。
タバコを見つけた簓が安っぽいオレンジの百円ライターで火をつける。吐き出された紫煙が昼間っから全開の電灯の明かりに吸い込まれてすぐ死んでいく。
「誰か、気になる?」
「だーれ?」
「ひとや」
三音。拙僧を狂わせた三音。世界で一つだけの三音。夢にまで見た男。誰よりも愛おしい男。獄の吸うタバコの匂いが鼻先を掠めた気がして、それだけで妄想は終わってくれなくて、一度だけ抱き寄せられた時のむせかえるくらい包まれた男の匂いまでもがフラッシュバックする。あの一瞬だけで今日まで生きている。あの時、背伸びして、甘っこい垂れ目のほくろにキスしなかったのは正解だったんだろうか。
そこにあったオレンジジュースの空き缶に、簓がタバコの灰を落とす。
「天国獄」
どくん。
心臓が大きく脈打ち、どくんどくんとそのまま強い脈動を続けて全身に血をポンプする。顔に急激に熱が集まる。ぎょろり、と見開いた眼球を動かして玄関を確認する。チェーンロックはかかっていない。内鍵を開けて外に出て、二階分の階段をかけ下りるのに何秒かかる?いや、考えている時間が惜しい。
枕を放り投げて起き上がる。と、どろぉと内股を簓の逐情が垂れる。その感覚に狼狽えた隙に、オーバーサイズのトップスの襟を掴まれて後ろに引き倒された。あぐらをかいた簓の膝の上に上半身が沈む。すかさず体を起こそうとすると、細腕から繰り出される意外なほど強い力で乱暴に肩を床に押さえつけられた。
「なに逃げようとしとんの〜くうちゃ〜ん」
「獄に手ェ出すな……!」
「ん〜どうしようかな。恋敵やしなぁ」
「ささら!!」
怒りで歯がガチガチとなる。きゅう、と瞳孔が引き絞られるのが自分でも分かる。
――迂闊だった。この男ならやりかねない。獄に傷一つでもつけたらぶっ倒す、ぶっ倒す!
「――な〜〜んて、冗談冗談!手ェ出さんしそも出せるわけないて。逆にしょっぴかれて終わりやわ」
「フーッフーッ」
ふ〜と仰向けの顔に煙を吹きかけられる。けほっげほっと咳き込むために目を閉じた一瞬、その一瞬で簓の表情は変貌していた。背筋がぞっとするような光を湛えた金色の瞳が露わになっている。
「くうちゃん。おもろないわぁ。ささらさん以外の男のことでそないなってぇ」
「……」
「さみしい、さみしいわ、くうこう……」
拙僧は、簓の瞳に射抜かれたその瞬間から、とっくに落ち着きを取り戻していた。とっさに頭に血が上ったが、よく考えれば簓が獄に手を出せるわけがない。いつの間にか肩の拘束も無くなっていた。自由になった手を伸ばして簓の髪をなでると、金色の瞳はまた姿を隠してしまった。
「お前にはいねぇの?」
簓の瞳が再び開かれる。そのままゆっくりゆっくり逆さまの顔が下りてくる。タバコの匂いがする唇が触れる直前、拙僧は目を瞑る。
「つつじもりろしょう」
しかし、その音の吐息を吹きかけられただけで唇が触れ合うことはなかった。
目を開ける。知らない名だ。きいたこともない。顔を上げた簓は再び瞳を隠してケラケラ笑いながら煙草を吸っている。その姿はすっかり平時の簓である。
「覚えときや空却、俺の心臓や」
「……しん……ぞう」
「これでおあいこ、やね」
簓は上機嫌だ。拙僧は……なんだか、おもしろく、ない。