迫り来る魔の手
「ねえ、あんた聞いてるの?郭嘉様が…」
「はい、確かに承りました。担当医の予定を確認しておりますので少々お待ちくださいませ」

そんな危篤な人がここで働いているのかと伊智子がゾッとしている一方で、蘭丸は顔色一つ変えずにそう言った。死んでしまう云々はこの女性の妄言らしい。
カタカタとパソコンのキーボードを打ち、目の前の女性がわめく「郭嘉」という男の予定を確認しているのだろう。

「早くしなさいよ」
「少々お待ちくださいませ」

「仕事遅いんじゃない?」
「申し訳ございません。お間違えのないように確認しておりますゆえ」

「いいからさっさとしてくんない!?」

言いたい放題の女性を軽く放置しつつ、少しすると蘭丸は視線をパソコンから女性に移し、口を開いた。



「申し訳ございません。ご希望の担当医郭嘉ですが、本日は終日予約で埋まっております。空いている時間は……明日…明後日…、明後日の夜11時頃が一番早い診察となりますが、いかが致しますか?ご予約されますか?」



蘭丸の涼しげな瞳が女性をじっと見つめた。
てっきりすぐにお目当ての男性と会えると思っていた女性はしっかり厚めに化粧を施した顔を醜くゆがめた。



「そんなの待てるわけないでしょ!早く会わないと…郭嘉様が死んじゃうわ!あんた、郭嘉様を殺す気!?この、人でなし!悪魔!」



なんだかだんだん女性が必死さを増してきた。むしろこっちが泡吹いて死にそうだ。
それなのに淡々と言葉を返す蘭丸に、伊智子は恐ろしいやら尊敬やらの気持ちが色々とまざりあってしまっていた。

「恐れ入りますが、当クリニックでは定期的に健康診断を行っており、担当医郭嘉も例外ではございません。私の記憶によりますと、先月受けたばかりで結果も肝臓の数値に少々問題があるものの、おおむね異常なしと―――」
「そういう話じゃないっつの!さみしくて死んじゃうのよ!!」

女性は大声を出して、とうとう腕をつっこんで蘭丸の胸倉を掴んでしまっていた。


患者を受け入れる受付スペースは内側と外側を隔てる大きなガラスがある。中は丸見えだけど、絶対に入ることはできない。
しかしガラスのただ一箇所だけ、小さな窓ガラスほどのスペースがくりぬかれている。そこが唯一、外来患者と受付の空気が交換できる場所になっている。
少々頑張れば小柄な伊智子であれば頭をつっこむことは可能だが、普段は受付時のやりとりに必要な最低限のことしかしない。他のことはする必要がないからだ。
だがこの女性は、己の感情の任せてあろうことかスタッフに危害を加えようとしている。
伊智子は目の前で起こっていることに驚きを隠せずに、一人青ざめているのであった。

「ちょ…甘寧さん呼んできます…」と小さく呟いた伊智子に対し、蘭丸は後ろ手で制した。
顔は見えないが、誰も呼ぶな、ということだろう。ウソでしょ。伊智子は困惑を隠しきれなかったが、おとなしくそれに従った。



「……手を離してくださいませんか」
「いーわよ」
女性はフンと鼻で笑った。
「郭嘉様を今この場に連れてきてくれるんならね」

小学生かよ。
蘭丸は無茶を言われても全く動じなかった。

「それはなりません」
「じゃあ絶対離さない」
「お離しください」
「やだっつってんのよ」
「………」

しばしの押し問答のあと。



「……わかったわ。郭嘉様のかわりにあんたが相手してくれるっていうなら、離してあげる」



ぎょっ。蘭丸の瞳がはじめて揺れた。困惑で、揺れている。


「そ、そんな、蘭には…そのようなこと…できません…」



なにが「かわりに」なのか分からないが、明らかに意味の分からない交換条件に大分動揺しているようだった。無理もない。
急に弱気になった蘭丸に女性はたたみかけるように迫る。




「あんた、よく見たらかわいい顔しているし、大人のお姉さんが色々教えてあげるっつってんのよ。
そうと決まれば、さっさと行くわよ。どこでもいいわ。なんなら、あたしの部屋でもいいわよ」



まるで獣のようだった。

女性からは見えない蘭丸の手がかすかに震えていた。
そうだろう。いきなり見知らぬ女性に暴力と暴言を受けているのだ。こちらの尊厳を著しく踏みにじるような言葉。値踏みするような視線。気色の悪い指の動き…。ひどい。いい大人が年下の人間に向かってすることではない。

もう蘭丸は言葉もでないようだった。蘭は、蘭は…。と、唇だけが動いているようだった。
反論しない蘭丸の様子に気を良くしたのか、女性はゆっくりと顔を近づけて、そして……





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