人の好みは千差万別
ゆっくりお風呂にも入って疲れを癒す。ドライヤーを使うと、短い伊智子の髪の毛は5分もかからずに乾いた。
実家にいる間はタオルドライで済ませていたのだが、ここでそれをすると確実に寝癖ができる。
しかも手ごわいタイプの。短い髪の毛は寝癖がひどいのだ…。
寝坊なんてしてしまった日には寝癖のまま出勤してしまうハメになり、怖い上司にしっかりお説教されてしまう。
そうならないためにも、きちんとドライヤーをかけ、しっかりくしでとかしてから就寝する必要がある。
「……あれ?くしがない」
いつも定位置に置いてあるはずの、三成に借りたくしがない。
あるはずがないのに、ついパジャマ代わりのTシャツと短パンの上から体をポンポンと叩いて探してしまう。
スーツのポケットにもない。部屋のどこにもない。
…なくした?
思わずよぎった最悪な事態に顔が青くなる。
どうしよう。仮にも借り物なのに…頭はたかれるだけじゃ済まないかも。クビかも…嫌だ…
「あっ!」
硬直しそうになる頭で必死に考えていると、思い出した。
受付業務の時、人がいなくなった隙にちょっと使ったんだ。そして、そのままテーブルの上に置いたままにしたかも。
そうと決まれば忘れないうちに取りにいかなきゃ!
伊智子はこの格好のまま、受付に急いだ。
「伊智子。このような場所でどうした」
「し、司馬師さん。今日もお疲れ様です」
「ああ、お疲れ。業務は終了したのだから、もう部屋に戻ると良い」
「はい、そうします」
受付に向かった伊智子はとある人物とかち合った。
つややかな黒髪をなびかせ、厳しいがどこか品のある端正な顔立ちと低く色気のある声が人気の医師、司馬師だった。
受付にくしを忘れたのだと言うと、ビルの中と言えど深夜は一人でうろつくな。といわれてしまう。すみません…。
司馬師はと言うと、近くのコンビニに買出しに行っていたようだ。小さなコンビニ袋を1つぶら下げている。
司馬師がコンビニで買い物をする様子を想像し、なんとも奇妙な組み合わせだなと思った。
「…あ、そういえば」
司馬師の顔を見て、とある人物を思い出す。
「司馬師さんは今日、まかないの食事食べましたか?」
「…?いや、私は食事はとっていないが。それがどうかしたか?」
「実は…」
伊智子は、司馬師の弟である司馬昭が今日美味しそうにカレーを食べてましたよと事のあらましを説明した。
ごくふつうの世間話として言ったつもりだが、それが結果的にチクッた形になっていることは伊智子は気づいてない。
司馬師は形の良い眉の間にしわを一本刻み、小さくため息をついた。
「またか。昭め…」
「司馬師さんはあります?お客様との食事を我慢してでも食べたいメニューって」
「…ある」
「へー。なんか意外です。ちなみに、何ですか?」
なんとなく食に興味なさそうなのに。と失礼なことを思っていた。
「………にくまん」
「え?」
伊智子は口を開けたまま固まった。
「肉まんだ。白く光り輝く生地に包まれた、うまみの詰まった具材…あれこそ至高の食物だ」
「え…えええ…」
意外すぎるチョイスについ驚きの声がでてしまう。司馬師は急に天を仰ぎ出して光を浴びるかのような謎のポーズをとっていた。
肉まんは確かに美味しい。伊智子にとっても、肉まんが好きか嫌いとを聞かれたらもちろん好きだ。
だけど…目の前で別世界に飛び立ちそうにしている司馬師ほど好きかといわれたら…それは違うと思う。
それよりも美味しくて好きな食べ物、いっぱいあるし。(本人には絶対に言えないが)
「まあでも、美味しいですよね。私、ピザまんとか好きです」
「違う!!」
なんか喰い気味に怒鳴られた。
「私が愛してやまないのは純粋な肉まんだ。他の味付けや甘味を使用したものは似て非なるものなのだ」
どうやら司馬師的に譲れないところがあったみたいだ。伊智子は口をはさむのをやめた。
それに、急にペラペラと饒舌になった司馬師に伊智子は驚きを隠せない。
「これもいい機会だ。肉まんがどれほど素晴らしい食べ物か、伊智子、お前にも教えてやろう」
「え…えぇぇ………」
司馬師の熱いスピーチは15分ほど続き、「どうだ?肉まんを食べたくなっただろう」と何故かわくわくした顔で聞かれたが、正直話だけでおなかいっぱいというか、食傷気味になったのでしばらく肉まんは見たくないな…と伊智子は思った。
そして、早く帰れと言った本人が結局引き止める形になってしまった。と、司馬師はお詫びとばかりに小さなチョコレートをひとつくれた。
「え、いいんですか」
「良い。…要らぬと言ったのに、無理やり店員に渡されたのだ」
「…はあ…」
そういうことなら、遠慮なく。
司馬師さん、コンビニの店員にもモテモテなのかー。
チョコレートとくしをポッケにいれながら、足早に去っていく司馬師の背中を見送った。
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