スタートダッシュが肝心です
「はあ、はあ、くそ、伊智子め、どこへ逃げおった…」
政宗は走った。
歩きなれたクリニックの廊下、狭い階段、厨房、屋上、あらゆるところを探しても、あの小さな背中は見当たらない。
わき目もふらず走っているのものだからいたるところで誰かとぶつかったり、またはぶつかりそうになっているが、今の政宗には相手のことなど気にする余裕などなかった。おいあぶねえな、と誰かが後ろで舌打ちをしているのを聞き流し、走る足は止めない。
「伊智子はおるか!!」
「おい、扉くらい静かに開けられぬのか」
政宗は大きな音を出して事務室の扉を開けた。ちょうど扉の一番近くに立っていた呂蒙がうるさそうに言った。
半兵衛は帳簿を見ながらめんどうくさそうにこちらを見ているし、元就はおやつでも食べていたのか、口元に食べカスをつけながら「おや、珍しいお客さんだね、大福でも食べるかい」なんてぼんやりとした顔をして言った。
「…チッ」
部屋を見渡してもいつもの面子しかいない。政宗はここもダメか、と謝罪の1つもせずにそうそうに事務室をあとにしようと振り向いた…ところで、再び誰かにぶつかりそうになった。
「むっ……、前くらいきちんと見ぬか!馬鹿め」
「…ご無礼ながら、目の前を確認しておられなかったのは政宗様の方でございますよ。怪我をされたらどうするおつもりですか?」
「…く、小十郎か」
顔もろくに確認せずに噛み付いた政宗に向かって、ここまで正論をきっぱり言えるのは小十郎のほか数人くらいだろう。小言のおまけつきだ。
政宗はバツの悪そうな顔をして目をそらしたが、すぐに向き直り本題をたずねた。
「小十郎、伊智子を知らぬか」
「伊智子様…で、ございますか」
政宗の口から出てきた名前に、小十郎は大いに驚いた。
自分の認識が正しければ、政宗と伊智子は顔を合わせて気まずくなることはあっても相手を探そうと思うような間柄ではないはず。
他ではない政宗のことだ。なにかあったのかとは思うが、残念なことに小十郎には伊智子の居場所はわからなかった。
「…申し訳ございません。小十郎には伊智子様の居場所は分かりかねます」
「クソッ、小十郎もダメか…ええい、どこへ行ったのじゃ、伊智子…」
政宗は小十郎の肩をグイと押してあたりを見回した。
どうやらそうとう焦っている様子だ。
ただごとではない様子の政宗につられるように、小十郎も少しずつ冷静さを失っていく。
「お待ち下さい、なぜ伊智子様を探しておられるのですか?何かあったのですか?」
小十郎は今にも走り出しそうな政宗の手を掴もうとしたが寸でのところで政宗がそれを交わした。
「待てぬ!理由も今は言えぬ!」
すでに走り出していた政宗は、小十郎の姿を見ず、背中を見せながらそう言った。
「ああ、もう…皆様、業務中のところ騒がしくしてしまい、政宗様ともども大変申し訳ありません。では、失礼致します」
小十郎は困ったような仕草をしたが、次の瞬間完璧な礼をもって事務室の前で謝罪をし、扉を静かに閉めた。
「政宗様!お待ち下さい!!」
そしてその後ものすごい速さで政宗のあとを追うため、完璧なフォームで走り出していった…。
残された三人には再びいつもの静寂が訪れた―が、嵐のような出来事のせいで仕事は全く手に付かなくなってしまったようだ。
「…全くなんだったのだ、はた迷惑な」
鍵でもかけてやろうかとぶつぶつ言ってる呂蒙は仕事の邪魔をされて頭にきているらしい。
「…政宗のあんな必死な姿、めずらしいね…しかも、伊智子を探してるなんて」
見つけたらげんこつの一発でも張りそうな勢いで探してたね、なんて冗談言って、元就は汚れた口元を拭った。
帳簿をパタンと閉じた半兵衛はさきほどのつまらなさそうな顔から一転、面白そうな顔を隠さずに笑っていた。
「やっとあの頑固な山犬も本当のことに気づいたってところかな?あの様子だと、また余計なこと言っちゃったっぽいけど」
「政宗と伊智子は確か、昔なじみ…と言っていたな」
呂蒙がつぶやいた。
伊智子がここで働くようになってすぐのこと。休憩室で勃発したあの出来事は記憶に新しい。
「昔なじみと仲たがいしたままでは、良くないからね。なんだか誤解がある様子だったし…いい方向に向かってくれることを祈るよ」
そこへ扉が控えめに開かれる。
「おはようございます…あの、先ほどものすごく急いだ様子の政宗殿と小十郎殿を見かけたのですが…何かあったのですか?」
顔を出したのは陸遜だった。大学が終わった後、直行で来たらしい彼は片手にコーヒーショップの袋を提げていた。
「おはよう陸遜。なんか〜、伊智子を探してるらしいよ」
机にひじをつきながら応えた半兵衛に、陸遜は驚いた様子を見せた。
「伊智子殿をですか?……大丈夫でしょうか…」
おそらく陸遜も先ほどの元就の冗談と同じことを想像してしまったらしい。それくらい政宗の勢いはすさまじかったのだ。
陸遜は机に荷物を置きながら深刻そうに呟いた。
それに対し、呂蒙は案ずるなと声をかけた。
「政宗だけでなく、小十郎もいるのだ。もしものことがあれば奴がどうにかするだろう」
「まあ、それは…そうですが」
「さあ、そろそろ仕事を再開しなくてはね」
わずかばかりの小休憩ももう終わり、と元就は机に広げていた大福の箱に蓋をし、引き出しにしまおうとしたところで半兵衛の間延びした声が響く。
「…あ、元就殿〜、俺にも大福一個頂戴」
「ああもちろん、呂蒙殿も陸遜も食べると良い、向かいの和菓子屋のだよ」
元就はしまいかけた箱を再び取り出してふたをあけた。
元就が差し出した箱を嬉々として覗き込む半兵衛、どれどれと手を伸ばす呂蒙に、いまいち腑に落ちない様子の陸遜。
大きな箱にぎゅうぎゅうに敷き詰められた大福は、あんこもぎっしり入っていて美味しいと評判の店の人気商品。
少しだけ誘惑されたのは真実だが、自分は仕事をしに来たのだと思い直り、持参したコーヒーを取り出しながら首を横に振った。
「…お気持ちだけ頂きます」
「陸遜ってば、まじめ〜」
口の端を白く汚してきゃらきゃら笑った半兵衛は、手元の帳簿に粉をぼろぼろ落としていたが、陸遜はそれを見なかったことにした。
「おお、美味いですな」「だろう?私ももう一個食べようっと」なんて言っている年長者達の言葉も無視し、自分の片付けるべき書類に手をつける。
…悔しいが、目の前で女子高生のような会話をしている3人のほうが自分より何倍も仕事ができるのだ。
早めにとりかからないと定時までに終わるかどうか怪しいところだ。
陸遜は複雑な心境でパソコンのスイッチをつけた…ところで
「陸遜、お茶ついで〜。しっぶ〜いの」
…先輩の言葉は絶対である。陸遜はつい一言いいたくなるのをグッとこらえ、重い腰を上げた。
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