形のない関係が悲しいよ

人生はいつだって痛い思いをするのは本気になった方。そう決まっている。
わかってはいたけれども、自分の気持ちを抑えられないときだってある。



私の勤め先は今で言うブラック企業そのもで、休みは月に四回。シフト制ではあるが希望休は通ったことがない。
拘束時間は十時間にも及ぶことが週のほとんどだ。休日には引継資料を残しても仕事のことで電話がくるし、
引継ミスでお客様に怒られてしまうことも何度もあった。
先日奇跡的にあった連休後、現実に戻ったショックでどんよりしていたら上司から

「お前、昨日まで連休だったんだろ。そのくせ感謝の言葉もないのか?
他の奴らは連休明け必ず俺のところに来て、連休くれてありがとうございましたって言いに来るけどお前はないんだ?」

などとわけのわからないことを言ってくるような会社なのだ。
思い返しても本当にわけがわからない。
ボーナスが支給されると社長に感謝を伝えに行かなければならない。
そんな会社だからか、私の同期は五人ほどいたが今残っているのは私とあと一人だけ。それ以外はみんな辞めていった。
無理もない、私だってこんな会社に長居するなんて思っていなかった。

運良く私は他の社員からも好かれ程々に仕事を任されている。顧客もいるし、なんだかんだ毎日充実していが社内に女性が少ないのだ。
指導してくれている先輩社員は、もちろん男性で社内では変わり者の嫌われ者。くまのように大きい図体で口も悪い。
仕事は抜群にできるけれども、それも相まって誰も寄って来なくなってしまった。
指導社員として上司から紹介された時はそれはそれは恐怖したのを覚えている。
ただでさえ女性が少ないのにこんな先輩と……と思っているが、なんだかんだ厳しい指導の元日々仕事をしている。



比較的飲み会の多い部署であり、女性がそもそも少ないので飲み会があるとだいたい誘われていた。
今日の飲み会も参加になってしまった、早く帰りたかったのに……と思っていても断れないのが上下関係の厳しい弊社。
それでも断り続けているのがこの人、六つ年上の先輩である虎杖さん。
虎杖さんはすでに結婚されていて社内での営業成績もトップを突き進んでいる。愛嬌もよく笑った顔がかわいい。なんて私はひっそりと思っていた。

「おう虎杖、お前も今日来る?」
「いや……すみません、行かないです」
「そおか? お前本当付き合い悪いよな〜」
「さーせん、また今度機会があればぜひ」

やんわりと断りデスクに戻って仕事を始める虎杖さんを横目に私はオフィスを出た。
そう、虎杖さんは不思議な事に会社の人とは飲みに行かないのだ。理由は知らしらないけれども、今まで一度もないらしい。
接待などは別だけれども、本当に会社の人と社外で付き合いがない。
なにか理由があるのかな、それとも仕事熱心なのかなと思いはするけれども直接聞くことはなかった。



飲み会から何日かたった日、珍しく残業をしてしまった。オフィスには数人しか残っておらず時間は二十一時を回っている。

「あ〜……やらかしてしまったな、早く帰ろう」

ヨボヨボと席を立ち、マグカップを洗いに給湯室へ向かう。夕飯何にしようとか、フレックスの申請を今からしても間に合うかなど考えながらマグカップを洗っていると

「よっす、みょうじちゃん。今帰り?」
「あ……虎杖さん。お疲れ様です、もうすぐ帰りますよ」
「そっかぁ、じゃあ俺と軽くメシでも行かない? 奢るよ」
「え!?」
「えって、いや?」
「いや…ではないんですけど、いいんですか?」
「嫌だったらそもそも誘わねーって! じゃ、俺も支度してくんね、エレベーターホールで待ってて」

スタスタとオフィスへ戻っていく虎杖さんの背中を見て考える。え? いま私あの人に誘われた?
珍しいこともあるな……その時は深く考えず急いで支度を済ませエレベーターホールへ向かった。




「じゃっ! 乾杯!」
「わっ、乾杯です!」

カチンと私のグラスと虎杖さんのジョッキが合わさる。
シュワシュワと並々注いであるビールを豪快に煽るさまはそれはそれは男らしかった。
私は今日は控えめでカクテルにした。疲れた体には甘いものがよく染み渡る。

「それにしても今日ホント珍しいよね。みょうじちゃんが残業してるところあんまり見たこと無いかも」
「そんなことないですよ。虎杖さんとあまり会社で会わないからだと思いますけど…」
「ふーん、そんなもんかな? わかんねーや」

本当に虎杖さんとは会社では会わないのだ。席が遠いから気づいていないだけかもしれないけれども、姿を見たことはあまりにも少ない。
どんどんと運ばれてくる食事がテーブルを埋め尽くす。カクテルでも枝豆は美味しい。甘いカクテルと枝豆の塩気がとてもマッチすると私は思う。



「……あの、ずっと聞きたかったことがあるんですけど」

お酒も食事も進んできた頃、そろそろ終電も近いしお開きになる前にどうしても聞きたかったこと。

「ん? なに? 俺でもわかることなら答えるけど」
「あの、虎杖さんてあまり、てか全然会社の人と食事行ったりとか……してないですよね」
「あー、そうだね、うん。そう。」
「それって、なにか理由とかあったりするんですか…? アレだったら答えてくれなくてもいいですけど」
「いや、別に? 理由……うーん……」

少しの無言。やはり聞いては駄目だったことだろうか、話題を変えようとする前に虎杖さんの口が動いた

「や、だって無駄じゃん? 会社の奴らとメシ行くの。 メリットがないっつーか……」

驚いた。そんなこと考えていたのか。驚き過ぎて次の言葉が出てこない。
「ホントに、業績上がるわけでも無いのに無駄なことしてんなーっていつも思ってる」
「無駄って……」
「ホントホント。気分悪くしたらごめんね? でもみょうじちゃんもいつも参加してるよね、嫌じゃないの?」

例えお酒の力を借りても嫌とは言えず、苦笑いで返しておく。自分が大人になったなと自覚した。

「え? でも虎杖さんいま私と飲んでますよね? 私も会社の人間ですけど」
「んー……みょうじちゃんはなんか違うっていうか、特別?」
「とくべつ……そうですか……」
「そう、特別。だからみんなには内緒にしててな。そんでまた二人でメシ行こうよ。今度はゆっくりさ。いいでしょ?」
「えう、はい…」

会社の人とご飯に行くことを嫌とは言えずはいと答えてしまった。広まったらどうしようなどと考えていると
テーブルの上でグラスを握りしめる私の手に虎杖さんが自分の手を添えた。
え、これ、え。なんだ? 三十代はこういうことも容易にできるのか…
振り払うこともできず、虎杖さんにされるがまま指を一本一本撫でられている。
ニカリと笑い、大きな手は私から離れ食事を再開した。



「すみません、本当にごちそうになってしまって…。ごちそうさまでした」
「んや、いーって。俺から誘ったんだし」

私がお手洗いに行っている間に虎杖さんは会計を済ませていたようだ。財布を取り出しいくらか払おうとしたがやんわりと制される。

「でも、奢ってもらうなんて悪いです」
「えー、いいじゃん奢るって言ったんだから、奢られてなよ。それに女の子に金出させるわけにいかねーって」
「う、でも」
「あー…じゃあ、連絡先教えて? これでチャラ。ね?」
「え、それだけですか?」
「そう。いーよね」

そう言われればしょうがない、渋々納得した私はスマートフォンを取り出し緑色のメッセージアプリを開く。
ピロン と軽い音を立てて虎杖さんからのメッセージを受信する。

「ふふ、虎杖さんなんですかこのアイコン、人形? くまみたいなグローブしてるやつ」
「なかなか可愛くねぇ? 痛い思い出しかねーけど、今は気に入ってんだ」

痛い思いとは、よくわからないので触らないようにしよう。


「じゃ、ホームこっちなんで、今日は本当にごちそうさまでした……!」
「まじでいーって! じゃ明日も仕事がんばろーなっ」

そう言ってホームで虎杖さんと別れた。本当に不思議な一日だったなぁと奇跡的に座れた終電間近の満員電車のなか考える。
お酒も入っているし残業もして疲れた。最寄り駅まではまだ時間があるので少し寝てしまおうか。
そう思っているとカバンから鈍い振動。誰かからのメッセージを受信したみたいだ。
こんな遅い時間に誰だよ…と思いダラダラとカバンからスマートフォンを取り出すと先程連絡先を交換した虎杖さんからのメッセージ。
以外にもマメなんだなぁ、他人事のように思いながらアプリを開く。

「虎杖です。
みょうじちゃん今日はお疲れ! 遅くまで付き合わせちゃってわりーね。 今度はまたゆっくりメシしよう。遅いし心配だから家ついたら何でもいいから連絡入れておいて。おやすみ」

「おぉ…」
長い間彼氏というものがしばらくいないためこんなに大事にしてくれてそうな連絡を久しぶりに受けてすこしときめいてしまった。なんだろうこの感覚。気恥ずかしい。

電車を降り泥のように重たい体を引きずってなんとか帰宅、もう若くないので次の日のお肌を考え死んだ顔をしながら洗顔を済ませ適当にスーツを脱ぐ。
あぁ、虎杖さんに連絡しなきゃだった。でももう無理だ。
ベッドに転がった瞬間襲ってきた強烈な眠気に勝てるはずもなく夢の世界へ飛び込んだ。




外もまだ薄暗い早朝、この世の終わりを告げるような目覚ましのベルが鳴り響く。

「あー、うるさ……。」

今日こそ早く帰りたいなと思いながらダラダラ支度を始める。何か大事なことを忘れているような気がしないでもないけれど思い出せないのでこのまま続行。
冷蔵庫からお茶を出して一飲み。パクパクとフルーツを口へ運びカバンを引っ掴んで戸締りして出発する。


会社のエントランスに着くと視線の先には虎杖さんが。昨日のこともあるし先輩だから挨拶しないと。そう思いパリッとしている背広の真ん中を軽く叩く。

「おはようございます、虎杖さん」
「! あぁ、みょうじさんか。おはよ!」

うーん朝の挨拶はやっぱり気分がいいなぁなどと呑気にしているとエレベーターは私たちのオフィスが入るフロアへと静かに到着した。虎杖さんの背中を追うようにしてエレベーターを降りる。オフィスへ向かおうとすると虎杖さんに話しかけられた。

「みょうじさん、ちょっとこれる?」
「? はい、いけますけど」

ちょこちょこと虎杖さんの後を追い着いた先は給湯室。この時間はまだ誰もこないのだ。

「どうしたんですか?」
「や、俺、みょうじさんに嫌われたかなって思って」
「え!? どうして、何かありましたっけ…?」
「昨日メッセージ送ったじゃん。家ついたら連絡してって。連絡こないから嫌われたかなってって」
「……あ! 」

朝何かを忘れていると思っていたのはこれだ!

「…すみません、昨日寝落ちしてしまいました……」
「! そうだったんだ、ちょっと不安になっちゃった」
「そんなことないです! 心配してくださってたのにすみません……。」
「はーよかった、安心した。また後で連絡するね?」




これから私たちの関係が変わるなんて思っていなかった。