01


 其の昔、日ノ国には黒兎(こくと)なる神獣が存在した。
 其の姿、闇よりも暗き体毛を持ち、血よりも濃ゆき眼を持ち、鉛よりも硬き牙と爪を持ち、鉄のような芳しい薫りを漂わせたとされた。
 其の獣、古来より伊邪那美に仕えてきたが、伊邪那美の死後、主を冒涜した伊邪那岐命に憤慨し、悪神へと成り果てた。
 見かねた伊邪那岐命は云う。

「其の獣、人々に災厄を振りかざすこととなろう。田畑は朽ち、川は渇き、数多なる病原を持って其の地に訪れよう」






 拳を固く握り合う二人。彼らの目には達成感が表れていた。
 よくやった、そう言って手を離すダリの言葉にユギは何も言わず頷く。ダリの傍らには、先刻ルダが稼いだ金銭の詰まった袋がどんと置かれている。
 ダリが金の入った袋を大切そうに抱える様子を、ユギは得意気な顔で見ていた。そんなユギにルダは「稼いだのは僕だけどネ」とつんと口を尖らせて横槍を入れる。当然すねたふりをしているだけで、ルダの表情はいつものように笑ったままだった。
 ユギ達は、自らの住居に帰還していた。ユギの側では体力をもて余したギルが、車が発する擬音を口にしつつぱたぱたと辺りを駆け回っている。リラはというと、帰宅してすぐにイユがいる部屋へと駆け出してしまった。
 彼らが帰ってきた尚も相変わらずライの姿はない。大方、自室に引っ込んでいるのであろう。少しは顔を出せば良いのにな、とダリは思っていた。

 落ち込んだ様子で現れたリラが彼らの目に留まるのに、そう時間はかからなかった。
 リラの真後ろからひょっこりと顔を出すイユの表情は、変わりない無表情のままだった。

「どうだったんだ」

 リラの態度から予想される言葉を脳裏に浮かべながら、ユギはあえて口を開き彼女に問いかけてみせる。
 口をもごつかせたまま目線を下に落とす彼女は、酷くちっぽけに見えた。黒い耳はしゅんと垂れ、指先はエプロンドレスの裾を掴んでいる。
 それでも事実を伝えなければならないことは明白ゆえ、彼女は気乗りしないままに口を開くこととなる。

「傷は、治ったの。でも……」

 そう言って、リラは後ろでぼうっと突っ立っているイユの方に振り向いた。イユはリラと目が合うと首を傾げ、耳を一度二度と動かす。

「……あの痣だけ、どうしても消えてくれなくて」

 言い終えたリラは、イユの左腕にそっと触れた。黒いコートで隠された内側を明かすべく、彼女はコートの袖を掴むと上に押し上げる。
 イユの肌は、確かに傷が一つも見当たらなかった。彼の色素の薄い色がはっきりと映し出される。
 けれどそんな彼の腕には、黒い痣が点々と残ったままだった。

「……なんだこれは」

 思わず言葉を漏らし、二人の側に歩み寄るユギ。眼帯に隠されていない方の眼で、目の前にあるものをじっと観察する。
 例えるならそれは、積もった雪の上に墨汁を垂らしたような、そんな外観に似ていた。イユの肌の色はとても白いため、この痣は非常に目立つ。

「呪い……なんじゃないか?」

 一斉に視線が声の主へと集まる。彼らの瞳に映ったのは、先程まで見かけなかったライの姿だった。
 一度に多くの目に見られて狼狽えたライは、小さく悲鳴を上げると後退り壁に背をぶつける。そんな様子の彼に、ルダは吹き出した。

「その可能性はあるな。リラが治せるのはあくまで傷だけだ」

 ライに賛同するように、ダリが言葉を繋ぐ。

「イユに攻撃した妖狼(ようろう)は一体どのような奴だったのだ?」

 ユギの紫色の瞳が、イユを一点に見つめる。問いかけられたイユは眉間にしわを寄せ、唸った。

「喋ってた。ホオズキがどうって。僕よくわからない」
「言葉を解したというのか?」
「うん。気持ち悪かった」

 そうか。一言呟いて、ユギは視線を床へ落とす。
 彼は今、己の記憶を疑っていた。妖狼の情報が誤っているのではないかと、自らを問い詰めていた。
 ユギは博識だった。恐らく黒兎内では、随一の知識量を誇る。治癒に関してはリラに劣るものの、彼以上に多くの情報を脳に入れている者はいなかった。
 それ故、彼は絶対的自信を持っていた。妖(あやかし)に対する知識でも同様、ユギは妖狼についても詳しかった。それは本当のことだった。
 しかしどんなに思案しても、彼の記憶に誤りはない。目の前の同胞が喋ったと告げる得体の知れない化け物は、はたしてなんだったのであろうか?

「……突然変異の類いか否か……」

 呆けた様子で呟いたユギは、片手を顎に添える。

「――ともかく、そういった妖(あやかし)なら呪術を仕掛けてきてもおかしくはないな」

 言いながら、彼は再三イユの左腕に黒々と浮かび上がっている気味の悪い痣を見つめた。
 生憎、黒兎で呪いに関与できる力を持つ者は存在していない。それぞれが特別な能力を持ってはいるものの、扱いが難しかったり、使いどころがわからなかったりする方が多い珍妙な力ばかりだった。








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