心中



 あの娘を通して他の誰かを見ている彼が大嫌いだった。とても無様で滑稽で浅ましくて、白昼夢に捕らわれているようで気味が悪くて仕方がなかった。
 あの娘は無論そのことに気づいていたし悟ってしまったのだけれど、彼女は優しいから指摘しようとはしなかった。
 それが余計に腹立たしかった。

 突然攻撃されて面食らったのだろう、呆然と目を丸くして僕を見つめる彼は物言いたげに口を開けた。しかし言わせるよりも先にぐっと距離をつめて、その喉に白牙の刃を押し付ける。ぷつりと肉が切れて血が滲み出した。

「むかつくよ、君」

 自嘲気味に吐きこぼして、そっとナイフを下ろす。きっと向こうからしてみれば、いきなり殴られて切られて、挙げ句には「むかつく」等と暴言を吐かれたのだからたまったもんじゃないのだろう。けれど僕には関係ない。それにイライラして、もう我慢ならなかった。
 彼は僕が故意に攻撃してきたのだと理解すると、きゅっと目を細めてその手のひらに炎を宿した。そちらもやる気なら話は早い。
 空いている方の手は喉元を撫でている。浅いめにしたつもりだったが思いの外傷は深く、だくだくと鮮血が溢れ始めていた。白いワイシャツの襟元は赤く染まる。少しばかりなけなしの良心が咎められるが、どうせすぐに回復してしまうのだから気に止めることもなかろう。

「……どういうつもりだ」

 返答によっては許してやらんこともない。
 そう言わんばかりの視線を投げ掛けられて、目眩を覚えた。その台詞こそ僕が言いたい。

「僕ね、昔のことをずるずる引きずるような脆弱、大嫌いなんだ」

 空笑いが口から漏れた。
 誰だって後ろめたい過去や記憶くらいある。かくいう僕だって時折、昔を思い出して辛くなることはある。
 だからこそ、そのしがらみを振り切って前に進む価値はあるのだろう。……罪を負いすぎた僕からは、とてもじゃないが語れやしないのだけれど。
 彼は訝しげに眉を寄せた。

「ライラックの花言葉」
「あ?」
「……いい加減気づきなよ。主を食らう悪い蛇になってしまわないうちにさ」

 諦めきったように、けれどすがるような思いで言い残すと僕は地面を蹴って飛び上がる。体は重力に逆らい、ふわりと宙に浮いた。彼は何かを叫んでいるようだが、どうにも聞き取れなかった。聞き取る気もなかった。


 生命は、何度だって同じ過ちを繰り返す。
 取り返しのつかなくなる前に、すべてを終わらせてしまいたかった。

 僕は、愚か者なのだろう。

 君にもう一度会いたいと願う僕は、わがままで、欲張りで、どうしようもない弱虫だ。




2013/07/04
執筆日は2013/06/24でした。



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