八月六日 蝉の歌声が撹乱する。ゆらり、ゆらりと陽炎のように消えてゆく。夏の風物詩である彼らの存在は、ある島国と一部の都市でしか体感できない代物だ。 片腕に如雨露(じょうろ)を持って、小川を探して歩き続ける。先ほど萎れていた可憐な花を見つけた。きっと水をやれば元気になるに違いない。何しろこの暑さだ、動物だってへたれてしまいそうにもなる。植物がくたびれるのは無理もない。 ちょろちょろと水の流れる音を聞いたので、それを頼りに足を動かす。裸足のまま森を歩くのはほんの少しだけ痛いけれど、今となっては気にすることもなかった。 身体中をひんやりとした冷気が包む頃には、自身の両足は冷たい川に浸されていた。さて、と威勢よく如雨露を降り下ろす。引き上げれば、液体を溜め込んだそれは重さを増した。 行こう。花が待っている。 どうということでもないのに、やけに胸がドキドキしていた。思わず駆け足になる。小枝が足の裏を掠めても、痛みを意識するまでもなかった。眼前の目標しかもう見えない。ただ闇雲に走ろう。 ようやく目的地にたどり着いて、ほう、と一息ついた。辺りはもう薄暗い。日が沈みかけていた。視界に映るは、今にも枯れ落ちそうな華奢な白い小花のみ。 小さな雨を降らせよう、と如雨露を傾けてようやく気づいたことがあった。後ろを向く。今まで辿ってきた軌跡が濡れた地面として記されていた。如雨露を裏返して、瞬きを一つ。底は欠けていて、親指二つ分ほどの穴が開いていた。 視界が煙る。ぐにゃりと歪みぼやけて、目の前の花が歪に表示される。手にしていた如雨露を落としてしゃがみこんだ。堪えきれずに喉から声が漏れる。 花に触れようとして、目の前の小さな命は今まさにその一生を終えた。はらりとこぼれ落ちる花弁は渇いた地に白い滴を垂らしていく。その上に覆い被さるようにして、瞳から溢れ出した液体がぽたり、ぽたりと降り注いだ。 「これで気がすんだか?」 その様子を木陰から眺めていた、白い毛並みを持った猫が呟く。冷めた眼差しを身を焦がすほどの思いで送る。それはさながら、赤子が親の真似事をする体に似ていた。 「私達は守れないんだ。作り出すことも、愛することも許されない」 うなだれた白い小熊に近寄って、その背に手を置く。爪を立てないよう軽く叩いて、ゆっくりと撫で上げる。 「桃源郷も、理想郷も本当は有りやしない。何かにすがりたがった人間が駄々をこねて創造した、滑稽な玩具の国に過ぎない」 白猫はあやすように小熊にそう言うと、ゆっくり顔を上げる。言葉遣いからして、小熊に言い聞かせる気がないことは明白だった。 「だから、この世の摂理を失わないためにも」 行き場のない尾はぴんと張りつめる。白猫は一呼吸置いた。耳をしきりに動かしている。どうにも白熊が泣き出したことをよく思わないらしかった。口から覗く牙が、ぐっと噛み締められる。瞳孔が開いていた。 「明日も殺そう。――ほら、ご覧。月が出ているよ」 日は既に落ちた後だった。昇っていく満月を見上げて、猫は語りかける。小熊の心境を汲み取ろうという親切さなど、彼にはなかった。 「……今日も綺麗だね」 か細く放たれた言葉が、小熊には泣いているように聞こえた。 2013/08/06 今日は八月六日ですね。 |