抱擁



 冷たい目をしていた。

 目の前に転がる血塗れの男を容赦なく踏みつける。呻き声が漏れるのもお構いなしに二、三度ぐりぐりとかかとで抉りあげた。男は耐えきれず吐血する。彼の内臓はズタズタに引き裂かれていた。
 男を踏みつける青年は、冷めた目付きでその様子を眺める。片腕に握ったワイヤーは赤黒く濁っていた。下で喘ぐ男のものだった。小さく息を吐いて、手に持ったワイヤーを引き伸ばす。乾いた音が軽快に鳴った。男は体をびくつかせる。
 この音の後に斬撃が来ることを、血に濡れて息も絶え絶えの男はとうの昔に理解していた。
 やめてくれ、と懇願するよりも先に絡み付いてくるのは真っ赤に光る糸。喉に引っ掛かるそいつは遠慮なしに締め上げられる。声にならない声をあげて、意味もなしに虚空に向かって手を伸ばした。最後の抵抗だった。
 その手を更に踏みつける青年は、男の無様な姿を尻目に興味を失せた表情をしていた。彼はこの男に好奇など抱いていない。こういった凌辱に興奮するような、快楽殺人鬼でもない。
 生死の境をさ迷い混沌とする意識を行き来する男の胸元を乱暴に掴む。無理矢理に顔を合わせて、今もなお首にめり込ませている糸を少しだけ緩める。

「最後のチャンスを差し上げましょう。わたくしは慈悲深いですからね」

 途端に空気を吸い込んだ男はむせ返り、その反動を堪えきれず嘔吐した。青年は眉間にシワを寄せる。けれどあまり気にしてはいないようで、話を続けようと口を開く。
 男はぜいぜいと肩で荒く呼吸を整えていた。

「我がリーダーをなんとおっしゃられたのですか? 早く言ってください。ほら」

 言い終えると再びきつく締め上げてくるその糸は、男の身体中に赤い線路を作り上げていた。青く腫れ上がったそのみみず腫は見ているだけでも痛々しいというのに、青年はさらに追い打ちをかけるかのごとく爪で引っ掻いて、さらに抉ろうとした。
 男は最早人のものに聞こえない悲鳴をあげる。獣を虐待しているようで非常に不愉快だと、青年は舌打ちした。

「もう話すことすらできませんか。滑稽ですね」

 皮肉を込めてそう言うや否や、青年は両手に握った糸を力強く引いた。血飛沫をあげて地面に落ちていく男は既に息絶えていた。
 頬に飛び散った男の血を嫌悪にまみれた顔をしながら手の甲で擦る。汚いな、と小声で呟いた。
 ゆっくりと後ろを振り返る。そこには青年がその手で殺めた死体が、まるでドミノのように積み上げられていた。喉の奥から笑いが零れる。

「あの方を罵倒するだなんて、愚か者にもほどがありますよね」

 そう吐き捨てると、きびすを返してもと来た道に足を運ぶ。無駄な時間を食ってしまった、もしかしなくとも彼女にお叱りを受けることになってしまうのだろう。青年はそんなことを考えつつ帰路を辿る。
 歓喜のあまりに口許が緩んでいた。興奮のあまりぶるりと身震いする。

「『お前はいつまで経っても学ばないな』、でしたっけ。……ふふっ」

 溢れ出す思いは、悦楽と恐怖と、ほんの少しの淡く、それでいて濁りきった期待。いつも彼女から罰を受ける際に放たれる言葉を口真似して、笑みを浮かべた。
 青年が着ている白いスーツは、先ほど殺した男と、それからあの男を殺めるよりも前に手にかけた者共の返り血を浴びて見事に変色してしまっていた。なにげなしにポケットに手を突っ込んでみる。落ち着かない気持ちは、そんな行為じゃあ満たされはしない。

「……梟」
「ああ、……鯱様」

 そんな時、彼が隠れ家に帰るよりも先にその家の主が目の前にあらわれた。珍しく仮面を付けていない少女は怒りに目を引きつらせている。梟と呼ばれた青年は彼女を見ると悦に浸った顔を向けた。
 鯱と呼ばれた少女は、口を固く結んで梟に近寄る。しかし血の臭いに目眩がしたのか、がくりと膝をついてしまった。梟は慣れた様子で彼女の元へと足を運ぶ。

「馬鹿じゃねーんですかねぇ」

 うつむいた彼女は目の前でかがみこんだ梟にそう言い捨てると、ぼう、と瞳を赤く輝かせた。刹那、梟の背には鋭利で巨大な刃物が突き刺さる。快感にうち震えた梟は大きく声をあげた。

「お前はいつまで経っても学ばないな。っていうか、いくら僕が嗜血症だからってそんな血ぃいっぱいつけた服着たくらいで気分が直るわけないでしょ。馬鹿にもほどがあるよ、ねえ梟神父?」

 偽悪に顔を歪ませつつ、梟の前髪を掴む。目を見たいがために彼が付けていた仮面を取っ払うと、濁った灰色の瞳と、黒曜石のような黒い瞳が姿を現した。悦により目は細められている。
 鯱は思わず身震いした。それは歳が一回りも離れている異性をなぶっていることへの背徳感と、純粋な憎悪。
 梟は背中に刺さった刃物の感触を確かめようと、手を背に回す。けれどそれさえも鯱は遮った。梟の手のひらに鋭いハサミが突き立てられる。

「あっ……あぁあ……鯱様ぁ……!」
「……お前って本当に気持ち悪いですね。普通は痛くて泣き喚くのに」

 気が萎えました、そう言って鯱はぱちんと指を鳴らす。すると梟に突き刺さっていた刃物とハサミは跡形もなく消えた。彼女はどうしようもない気持ちになっていた。本気で目の前の男に恐怖していたのだ。

 痛みで屈伏させられない、この男に。

 反射的に離れようと体は動く。けれど梟がそれを制した。鮮血がだくだくと溢れ出すその手で鯱の腕を掴んで、そのまま口に持っていく。軽いリップ音を一つ鳴らして手を離した。

「っあはは、申し訳ございません。……はあ……、俺が全部悪いんです……鯱」
「……もうそれはいいよ」
「もっと俺を痛め付けてください。……ああ、鯱、鯱……」

 乞うようにして鯱にすがり付く。鯱の体が強張ったのがわかった。それでも離さないで、覆い被さるようにしてしっかりとしがみつく。抱擁を覚えたてた赤ん坊のように不格好なその行為は、狂気を匂わせる。
 鯱は何も言わなかった。彼の背に手を回すことも、離せと突き放すこともできなかった。これは梟が、彼女を掌握していることの証。

「好きなんだよ百合子……百合子、ねえ」

 梟は返事が来ないことを知っていた。彼女の本当の名前を繰り返し口ずさんで、自己満足に浸る。化け物の諸行だと後ろ指を指されても、違和感は生じない。
 鯱はむせ返るほどの血の臭いにすっかり酔っていた。欲求を堪えるためにも、ぐっと歯を噛み締めて目を閉じる。

 歪に感じる互いの体温は、どんなにすれ違っていても確かに暖かかった。



2013/08/09
間に合ったハグの日。



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