馬鹿犬



 いつだったかはもう覚えていないけれど、こんな僕になついた馬鹿な犬がいた。
 出会いすら思い出せないほどに昔のことなのだけれど、確か汽車が完成した頃だったと思う。
 その馬鹿犬は、質素な段ボールの中で暇をもて余してうずくまっていた。
 その時の僕はあまりにもお腹が空いて倒れそうだった。子犬を見るや否や、僕は手を伸ばし掴みとり、今にも大口を開いて貪ろうとした。
 なのにこの犬は状況把握ができない畜生だったらしく、身の危険など図らずに僕の頬を舐めたのである。
 驚いてたまげた僕は、犬を捨て置いて走り去るしかなかった。


 しかしながら、畜生にも追尾は可能なようで。自身の嗅覚を最大限に利用し、奴は僕の後を追ってきた。

「あれ、イユくん。とうとう君も動物の魅力に気づいてくれたの?」

 僕の後ろをじっと見つめながら、さも嬉しそうに口許を緩めて言い募ったリラの間抜け面を、ありありと思い出す。

「チガウ。こいつが勝手についてきた。僕関係ない。知らない」

 胸の奥深くどこか遠いところを乱雑に掻き乱されるような錯覚に襲われて、僕はとても不機嫌になった。リラに冷たい返事を寄越して、足元にすりよってくる奴を睨み付ける。尻尾を振っていた。
 それからこの犬っころは、仲間内で密かに飼われるようになった。失格組も時折現れては、夕飯の残りを与えるようになっていた。
 思ったのだけれど、あの犬は飼い主に捨てられてひとりぼっちだったのだろうか。なら、この状況は奴にとって至極幸せなのだろう。

 あそこに僕は、必要ないだろう。

 そう考えをまとめた上で、僕はそっとあの場から離れることにした。
 案の定馬鹿犬はそのことに気づき、ついてきた。伸びきった爪を地面に叩きつけて、カシャカシャと耳障りな音をたてながら。

「ついてくるな」

 餌をくれるあいつらになつくということに関しては、僕にだって理解できる。けれどこいつは、どちらかというと敵対心を抱く僕にすら寄り添ってくる。
 奴に出会ってから感じ始めた胸を抉られるような気分に、眉をしかめた。
 もう放っておこう。いつかは諦めて向こうに帰ることになるだろう。結論をおいて、僕は臆することなく歩を進める。

 しばらくして、犬の歩く音が途絶えた。振り返る。やはり畜生の姿は、ない。

 しかしその代わりに、鼻につく鉄の臭いが漂ってきたのが感じられた。突如背筋に流れ込んだ悪寒は、僕を奮い立たせる。
 馬車の駆ける雑音が、思考を削いでゆく。

 踵を返して、ただ走った。

 目に飛び込んできたのは、横たわり腹から血を垂れ流す馬鹿犬の姿だった。恐らくさっきの馬車に巻き込まれ、はねられたのだろう。
 目の前と頭の中が真っ白に塗り潰される。情けないことに声は出てこなかった。周りなど気にも止めず、馬鹿犬の元へと駆け寄る。
 舌を垂らして、苦しげに呼吸していた。まだ、生きている。まだ間に合う。
 両手に収まるほどの痩身を抱き抱えると、僕はリラを探した。リラは呑気に本を読んでいた。



 療法に優れているリラのおかげで、馬鹿犬は一命をとりとめた。けれど、このような事態に陥ったのは紛れもなく僕の責任である。じりじりと肉を焼かれるような痛みが、喉で起こった。
 馬鹿犬は二日と十六時間眠っていたが、目を覚ましてからは元気よく草原を駆け巡った。

 あの記憶は忘れたくても忘れない。意識を取り戻したそいつが僕を見つけるとなると、まるで「君は悪くない」とでも言いたげに僕の頬を再度舐めたことを。
 そして恥ずかしいことに、そのせいで僕はみっともなく泣きわめいてしまったことを。


 馬鹿犬はあれから三年生きたが、僕らの追っ手に捕まり殺されてしまった。
 この記憶も忘れられやしない。ほんの手違いで足を滑らせ転げてしまった僕が逃げられるようにと、わざと追っ手に飛び込んでいったあいつ。



 馬鹿だ、馬鹿な犬はやっぱり馬鹿なんだ。あいつは死ぬまで、僕の言うことを聞いてくれなかった。
 いらないって言ったのに木の実なんて取ってきたし、痛いからやめろって言ってもひたすら傷口を舐めてきた。暑苦しいから離れろって言っても、いつだってそばにいた。




 悲しいときもそばにいた、馬鹿なあいつ。




『やめろ、行くな! 待って――!』


 ほんっとうに、馬鹿な畜生だったよ。だから、僕は犬が嫌いなんだ。





2013/10/22
綴編より。
執筆日は3月13日でした。



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