希望



 雨が降りしきる中、鼠はずぶ濡れになって帰ってきた。日が落ちて随分と時間が経った今、外は暗闇に覆われて視界を奪う。ネズミの耳を象ったカチューシャと不気味な仮面だけが目印の彼女は、雨に濡れてべったりと肌に張り付くタキシードを着ていた。
 帰宅した鼠が目に入った梟は、小さく息を吐いてバスタオルを手に取ると、慣れた様子で彼女の元へ向かう。深夜と言っても過言ではないこの時刻に、齢少ない少女が今の今まで外を出歩いていた事実に関しては言葉を失いたくなるのだが、仲間内によく姿を眩ませる鯱がいるのでどうとも言えないのが彼の現状である。

「おかえりなさい、鼠。今日は遅かったですね」
「ただいま戻りましたミスター梟」

 暖かく声を掛ければ、鼠は普段と変わらぬ様子で言葉を返してくれる。しかし梟は、感情のない声色の彼女が僅かに唇を震わせたことに気がつく。

「何かあったのですか?」

 眉を垂れて問えど、案の定鼠はこういった質問に答えてくれるような性分ではない。口を固く結んだまま、彼女は、動かなかった。
 けれど答える代わりに、下を向いたまま両の手を梟に突き出す。彼女の手には黒いぼろ雑巾のようなものが乗っていた。
 梟は依然として仮面の奥に隠した鳥目を細め、じっと獲物を見据える視線をその物体に送る。そうしてぼろ雑巾の正体に勘づくと、思わず本能的に一歩後退ってしまった。

「それは……猫の死体、ですよね」

 おずおずと聞けば、鼠は下を向いたまま小さく頷く。梟からはその顔色は読み取れない。
 彼は何秒かの間硬直していたが、何とかして鼠がこの死体を持ってきた理由を聞き出したく思った。
 指先が落ち着きなく、空中を跳ねる。

「轢かれていたのです」
「…っえ?」

 すると意を決したようで、彼女はぐっと顔を上げて、心なしか大きく声を張り上げて確かにそう言った。
 梟としては、自らが手を煩わせることもなく聞き出せたのである種の満足感を覚えたのだが、どうしてか鼠は珍しく感情的に動揺している。彼は不思議に思う反面、興味と好奇心が沸き起こった。

「運悪く轢かれてしまったのですか、それはそれは……」

 せめて建前だけでも驚いておこうと、梟はうなだれたふりをする。
 鼠は一歩前に進み出た。

「はい、轢かれておりました。ですが、この子はやけにゴムの臭いがきついのです」
「ほう。…と言いますと?」
「一度や二度轢かれただけでは、ここまで臭いはつきません。…つまり、この子は事故で轢かれたのではなく、故意に轢かれたということになります」

 言い終えると同時に亡骸を抱き締めた彼女は、すん、と鼻を鳴らした。梟は窓を見る。窓はがたがたと音を立てている。雨は止んでいなかった。
 濡れた手で優しく猫を抱く少女は寒さに身を振るうと、頭を下げたまま微動だにしない。

「……鼠、その猫を拾ったところへ案内してください」
「…承知しました」

 梟の声に頷くと、鼠は彼が気遣いで持ってきたバスタオルなど目もくれず再び雨の中に飛び出した。



「…あっ!」

 再度訪れた鼠は、声を漏らした。月の光が届かない真っ暗なこの道は電灯で照らされており、コンクリート張りで、所々に水溜まりができている。ただ、その水溜まりのうちの一つは赤黒く変色していた。梟はそれが猫の倒れていた区域だと判断する。
 けれど、その近くには真新しい花束が添えられていた。

「よく聞きなさい、鼠」

 梟も鼠につられて飛び出したため、雨を凌ぐものなどは持っていなかった。二人と一匹の骸は雨に打たれながらも、そこに唯一として存在している。
 梟は鼠と目線を合わせるためにしゃがみこむ。雨水が頬を伝った。

「心ない人間の方がはるかに多いことは目の背けようもない現実ではありますが、このように情に溢れた方も、少なからずはいらっしゃるんですよ」

 ふやけた指先は、猫の頭に触れる。

「さあ、この子は埋めてあげましょうね」

 鼠が賛同するのを確認すると、彼は空を扇いだ。
 雨は、小降りになっていた。




2013/10/22
綴編より。
執筆日は3月12日でした。



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