虚妄 遠い日々のお話。空には暗雲がかかり、頬を裂く冷たい風が息吹き、そこかしこで怒号が唸るような、苦しい日々のお話。 レンガ張りの建物に、真っ白な子猫が一匹おりました。子猫は自分がいつから此処にいるのか、何処で生まれたのか、また何のためにこの地にやって来たのかをすべて受け入れていました。 けれど子猫はそのことを面白く思っていません。何故なら、この白猫はとてもひねくれ者で、感情を渇望していて、かわいそうな子猫だったからです。 子猫は小さな体を精一杯に伸ばして、二つの鋭い瞳をぎらぎらと輝かせ、大きく開いた穴から外の様子を覗いているのでした。 外は銃声と、子供の慟哭、大人達の罵声だけが行き届いています。秩序のない世界、それがここでした。 白猫はこの世界をまっさらにするために生まれたのですが、何、ニンゲン共の醜い本性を眺めるのも悪くはない。と、自分の役目など後回しに、ぼんやりと双眼で見つめるばかり。 しかし白猫は、ある日紛争だらけのこの街で、自分とは正反対に真っ黒な子猫を見つけたのでした。白猫は断然興味が沸いて出てきます。此処に来てから、ニンゲンと自分以外の生物を認識したのはこの黒猫が初めてだったからでした。 黒猫はこの街で不吉なものを運ぶ使いとされ、忌み嫌われているようでした。石を投げる子供、蹴り飛ばす大柄の男。木の枝で叩く女性もいました。 最初は黒猫がなぶられる様子を黙って見ていた白猫ですが、見ていていかんせん気の良いものではありません。頭で考えるよりも先に、体が動いていたのでした。 にゃあ、と鳴いて、横たわる黒猫に声をかけました。黒猫は傷だらけで至るところから血を流していました。後ろ足は踏まれてしまったのでしょうか、ぐしゃりとひしゃげています。片目も潰れてしまっていました。 にゃあ、と黒猫は弱々しく返事を寄越しました。話すだけの力はあるようです。白猫は黒猫をどうするか迷いましたが、ひとまず自分が腰を据えている、あのレンガ張りの建物に連れていくことにしたのでした。 けれど白猫は、自分の真っ白で、雪のようにきめ細かい毛並みを気に入っていました。黒猫を運ぶには、彼を背負わなければなりません。しかし黒猫を背負うとなると、血や泥で汚れてしまい、今のこの美しい体毛は二度と拝むことができなくなるのです。 白猫は弱りました。この白毛を失うわけにはいかない。けれど、ここに黒猫を一人残して見捨てていくのもいい気分ではない。 苦肉の策として、白猫は黒猫の首を優しくくわえ込みました。引っ張っていくことにしたのです。 「痛むかもしれないが、抵抗などしてくれるなよ」 それが、白猫が黒猫に初めて発した言葉らしい言葉でした。 それから白猫は、渋々ながら黒猫を看病しました。傷口や泥を舐めて綺麗にしてやり、隠し持っていた木の実やハムの切れ端なんかを分け与えました。口の中は鉄臭いわ泥苦いわ、自分の食べる分は減るわで内心不愉快極まりなかったのですが、自分が起こした行動を途中で投げ出す性分でもなく、黒猫の面倒をただただ見るしかなかったのでした。 白猫のおかげで、黒猫はみるみるうちに回復していきました。後ろ足と目は相も変わらず治らないままですが、立って歩き、はっきりと話せるまでになっていました。 「しろねこさん」 黒猫は白猫のことをそう呼び、命の恩人として慕っているのでした。 白猫としてはまさかここまでなつかれるとも思っておらず、予想外の展開にぐるりぐるりと目を回してみたりもしたのですが、この黒猫、しぶとさだけは一人前のようでいくら突き放してもついてくるようです。 それ故白猫は黒猫を側に置くことを許すしかありませんでした。ほんの気まぐれで助けた命が、今こうして目の前で鼓動を放っている。その事実に少しだけ胸が暖かくなるのを感じながらまぶたを閉じてみます。白猫には感じたことのない感覚でした。 それから二匹は、何をするでも一緒に行動することになりました。ご飯を探すときも一緒、ニンゲンに追い回されるときも一緒。眠るときも、水を浴びるときも一緒です。 白猫が一匹の時はニンゲンに追い回されることはなかったのですが、黒猫がいるせいで白猫も巻き添えをくらい、逃げなければならないのでした。 けれど白猫は別段気にしていませんでした。それどころか申し訳なさそうにする黒猫に、 「お前が石を投げられる立場なら、私はお前の盾になろう。私が石に当たりにいこう」 と言う始末です。共に日常を過ごすうちに、白猫も心を許していたのでしょう。黒猫もその言葉に大層喜び、甘えるように頭をすり寄せたのでした。 すり寄せる度に黒猫についた泥や枯れ草が白猫にくっつきますが、白猫はもう気にしてすらいませんでした。出会った当初では想像もしなかったことでしょう。 白猫にはこの日々が、確かに幸福に溢れていると思えていました。 しかし、幸福にも終わりは来ます。紛争が激しくなり、街に住む動物達も意味もなく狩られていく時代がやって来たのでした。 白猫は自分がどうして此処に来たのかを知っていました。一度この地をまっさらにして、すべてをやり直すためでした。けれどこの地をまっさらにしてしまうと、ここにいる生物――つまりは黒猫も、いなくなってしまうということになるのです。 そこで白猫は、黒猫に提案しました。自分の住む土地に来る気はないか、と。 黒猫はもちろん、否定などしませんでした。白猫が大好きでした。だから何処まででもついていくと、そう白猫に言いました。 白猫は幸せでした。彼が探し求めている愛は、もしかしたらこれなのかもしれない。そうとすら思えていました。 白猫は黒猫に言いました。 「私は少しの間用意をせねばならない。その間お前はここで隠れて待っていろ。決して出てきてはいけない」 黒猫はついていくと、言って聞きませんでしたが、何度も言い聞かせてやっと頷いてくれました。 黒猫が連れてこられたのは、深く掘られて底が見えない土で出来た小さな洞穴でした。真っ暗な穴が黒猫の不安を煽ります。 けれど白猫が言うから、大好きな白猫の頼みだからと黒猫はその中に入り込みました。光は少しも射しておらず、闇一色で塗りつぶされたような空間でした。 丸くなり、白猫が帰ってくるのを待ちます。白猫が帰ってくるまでは出ていっちゃあいけないのです。黒猫はひもじい思いをこらえて、爪を出したり、引っ込めたりしてじっと辛抱していました。 それは永久の時のように思われました。 寂しくなったときは、白猫と過ごした日々を思い出しました。いつも笑顔が絶えない日常でした。白猫は、いつ帰ってくるのだろう? そんな不安を押し殺して、黒猫は待ちます。 ずいぶんと長い間待ち続けて、やがて黒猫は疑問を抱きます。本当に白猫は来てくれるのだろうか? 疑いたくなくても、何もない場所でじっと待っているだけでは、疑う気持ちが沸いてしまうのが生物の性でした。 それでも黒猫は待ちました。見える方の目を瞬いて、何も見えない空間をぎょろりと見渡しました。それから顔を伏せて、白猫のことを思ったのでした。 長く長く待ち続けて、黒猫はすっかりくたびれきってしまいました。白猫は、まだかなあ。ただそれのみを考えて、二つの耳をぺたりと下げました。 すると突然、外で断末魔が上がりました。聞き覚えのある声、それは確かに白猫のものでした。 白猫に何かあったのかもしれない。心配でたまらず、黒猫は白猫の言いつけを破り穴の外へ飛び出しました。 目に飛び込んできたのは、猫なんて大きさには到底おさまらない姿をした白猫でした。戦車のような巨躯から生える長くてたくましい脚は、ニンゲンを踏んづけていました。 背中には、鷲のように立派な翼が生えていました。白猫の体毛と同じ白色でした。 けれどそこで、黒猫の意識はぷつりと途切れて、それっきりでした。 「だカら言ったノニなア」 荒廃したその地に、白狼が舞い降りた。体毛から銀に光る粉を振り撒いていた。落ち着かない様子で背中に生えた二対の翼を動かして、彼は目の前でうなだれる白猫に声をかける。 白猫の腕には、何本かの黒い毛が「乗って」いた。 「オレさマたちとハ時間感覚が違うンダって!」 その言葉に、白猫はぴくりと耳を動かした。耳だけを動かして、目だけで白狼を見た。充血しており、目の下には隈が出来ている。泣き疲れてしまったのか、減らず口すら叩かなかった。 白狼はゆっくり白猫に近づき、嫌味ったらしくその顔を舐めあげた。忠告を聞かないからだ、と言い聞かせるように、一度だけ。 「…………こいつは」 すると白猫が、ぽつりと言葉を吐き漏らした。いつもの威勢はどうしたのやら、今の彼には憎たらしさを微塵も感じない。 白狼はそんな白猫に違和感を感じて、そっと耳を傾ける。 「何年、私を待っていてくれたのだ」 白狼はため息を吐いた。 「二百年クラいだナ」 黒猫が入っていた穴は、神獣が神通力で作り出した特別な空間だった。あそこにいる限りは肉体の時が止まり、決して寿命で死に至ることはない。 けれど死なないとはいえ、体感感覚が変わることではなかった。黒猫は十五年そこらで尽きてしまうその体感感覚で、文字通り二百年は白猫を待ち続けた。自我が崩壊しなかったことこそ奇跡とすら言える。 「ハヤくいくゾ。オマエの役目は終わッたんダカらな」 白狼は言い終えるよりも先に、待ちきれないと言った様子で翼を羽ばたかせた。辺りに砂埃が立ち込める。その際に白猫の手に乗っていた黒猫の毛が、風になびいて消えていく。 白猫はもう、黒猫の毛を追いかける気にもなれなかった。白猫の体は、かつて此処で生きていた生命の血で、黒猫のように漆黒にすら染まってしまっていた。 仮に白猫が迎えに来るまで待ち続けたとしても、ただの動物が天界にいけるはずもなかった。黒猫が事切れる未来は変わりやしなかったのだ。 それでも白猫は、裏切られた、ただその感情に支配され、その場にうずくまる他なかった。 白猫の地獄は終わらない。 2013/11/23 書いていくうちにオチが書き変わっていた今年の問題作がこちらになります。 |