ばか


「……まだ治らない」

 苦虫を噛み潰したような顔で呟いたのは、当図書館にて最高責任者を務める海音海月──本名は稲羽穂吉──であった。彼は利き手の人差し指で自身のした唇をなぞる。忌々しげに刻まれた眉間のシワは根深く、そうやすやすと消えてはくれない。
 煮え切らない様子のまま、空いた方の右手でがしがしと乱雑に頭を掻く。冬真っ只中、乾燥という悩みの種を抱えるのは海月も同様である。別段乾燥肌という訳ではないものの、今年は特に酷いらしく、珍しい事に保湿クリームやリップクリームを多用している様が文豪の間で目撃されていた。
 この季節は仕方ないよ、と文豪のうちの誰かが口にする。海月は小さな溜め息をこぼし、

「だよねえ」

と諦めきった態度で言葉を吐き捨てた。喋ると唇の皮が突っ張るのだろう、痛みを伴ったらしく彼の目が煩わしげに細められる。
 そんな海月を、明確な視界には捉えないものの──しかし眼界にはきっちり収めてしまっている──眺める文豪が一人。他者と目を合わせないことで有名な詩人、萩原朔太郎その人であった。
 彼はそわそわと辺りを見渡した直後、ふわふわ跳ねるような歩き方で海月の元へと歩を進めていく。月の満ち欠けが記された羽織りは、良くも悪くも目立つ代物で。萩原は周りの視線を集めながら海月の隣へと立ち止まった。

「司書さん」
「ああ、朔か」
「大丈夫?」

 言葉を交わしつつも、やはり瞳が交わる事は断じてない。お互いに目が合うことを快く思っていない節があるためではあるが、双方目線を別に向けながら対話をする様は稚拙で不格好と言う他なかった。
 しかし当人らは気にするそぶりすらない。海月に関しては苦笑しながら「こうも治らないと鬱陶しい。とにかく痛いし血の味がする」と言い募る。

「大変だね」

 萩原の眉がきゅっと狭まる。心の底から同情していると受け取れるほどの、表情の変化だった。海月は再度苦笑する。彼は同情されることを良しとしていない。

「いや、大丈夫だって。気にしないでよな」

 だからこその、この発言だった。言い終えると同時に、海月の唇から嫌な音が放たれる。ぶつり、と皮が裂ける、とてもじゃあないが耳に入れたくない音が鳴る。

「いっ……つ」

 表情が歪んだ。真新しい血液が彼の口から垂れていく。鮮血は薄い唇から滴り、赤い道筋を描こうとしていた。

 通常こういった事態に陥った場合、人間は二通りの行動を起こす。一つ目は、自らの舌で血を舐める。そして二つ目は、ちり紙やハンカチーフや服の袖などで血液を拭う。

 海月も当然と言わんばかりに、一つ目の行動に移ろうとした。が、それよりも先に彼の腕が何者かによって力強く引っ張られる。呆気に取られたままの海月は、逆らう術を知らぬまま重力に流されるまま、引かれた方へと胴体を傾けた。
 彼の腕を引いたのは、眼前で佇む萩原に違いなかった。普段はペンを握っているその手で強引に、ぐい、と引き寄せた萩原の目に映るのは、海月、その一点のみである。深海のように暗い青色の瞳は爛々と輝きを灯している。紛れもない興奮の証であった。

 歯と歯がぶつかりかねない勢いでの口付け。誰かが「あっ」と声をあげた。続いて、白秋が小さく笑う。普段は気になってどうしようもないはずの外野など気にも止めず、萩原は己の唇を海月へと押し付ける。
 そうしてそのまま、赤い舌先で彼の唇を舐めた。海月は抵抗をしない。否、正確には動揺のあまり、微動だに出来ないまま、呆然とされるがままになっている。
 味蕾から伝わるのは、他でもない血の味。それと、ほんの少しばかり桃の香りのする、リップクリームの味。

「……本当だ、血の味がする」

 唇同士が交わっていた時間は、長くなどなかった。萩原は離れていく口唇を目で追いながらぽつりと呟くと、一歩後ずさる。下駄の音がからりと鳴った。
 一方海月はというと、何をされたのかを未だに理解し得ていない様子で目を白黒させながら、自分の口を両手で押さえたまま硬直してしまっていた。
 数秒後に本人がやっとの思いで吐き出した「朔の、ばか」という呟きに、萩原は愛おしげに口許を緩めていた。





2017/01/21
このあとめちゃくちゃ折檻した。


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