春告げ鳥は夢の中


 深夜零時、日付が変わり四月二十九日を迎えた。壁掛け時計は秒針が揺れる毎に僅かな物音を立てている。
 机にあしらえた小さなランプは電球が切れかけており、時折チカチカと点滅を繰り返していた。

 ここ数週間で急激に気温が高騰してしまったから、着の身着のままだって肌寒さを感じることは少ない。司書はワイシャツ一枚姿の状態で、ズボンも履かずにベッドの淵に座り、風に靡いている半透明の白い、幽霊のようなカーテンを眺めていた。
 中原中也は汗ばんだ体を空気に晒している。左手には火のついた煙草が鎮座していた。彼は気だるげにゆるりと立ち上がると窓際に立ち、ぷかぷかと煙をふかしている。

「誕生日おめでとう」

 不意に司書がそう言った。司書は顔を上げず、地べたに目線を落としたまま両足をぶらぶらさせていた。中原は唇の端っこから白いモヤを吹きつつ、ちらりと司書を見やる。

「祝い酒でもくれるってのか?」

 抑揚のない平坦なトーンで放たれる言の葉に、司書は口元だけにやりと動かした。ぴたり、と足が静止する。けれど、顔が上がることはない。

「まさか。君がこういう祝い事を好いていないのは知っているから、そんな無粋な真似は出来ないよ」
「おいおい、オレがいつ言ったんだよ。ンなひねくれた枯れ木じみたことをよ」

 春の夜風は火照った身体に丁度いい具合で、中原は胸の中心部がほのかに鎮火するのを感じていた。
司書は眼だけを動かして彼を見つめてみた。態度は俄然として落ち着いている。酒の入っている彼を見慣れている者はびっくりするかもしれないな、などと他人行儀に思う。

「正月だかに言っていたろ」
「好きじゃねーとは言っていねえぞ。安直だって言っただけだ」
「おんなじだよ」
「同じでたまるか」

 中原は机上で腰を据えている灰皿を乱暴に取ると、雑に煙草の先端をぐりぐりと押し当て、揉み消して鼻で笑う。それから司書に数歩歩み寄って、どっかりと隣にその背を下ろした。
 スプリングが軋み、司書は上下に揺れる。
 司書は気味の悪い、笑っているのだか困っているのだか分からない顔のままぱっと中原に向かい合った。言い訳の思いつかない子供を見ているようで、中原はぼんやりと幼少の頃の己を思い出している。
 だからこそ変に言及しようとはせず、口を閉じたまま両の指で司書の頬をぐにぐにと揉む行動に出たのであった。

「ま、気持ちだけでも嬉しいもんだぜ。こうして誰かから祝われること自体、死人だったオレには有り得なかったんだからな」
「……そういうものかな」
「そういうもんだろ。おまえは違うのか?」

 二度三度と揉んでやりながらも言い終えると、司書の口唇は戸惑いがちに形を変える。

「……違わない」

 それ見たことか、と中原は小馬鹿にした様子でケラケラと声をあげて笑った。大袈裟にリアクションをする彼の傍ら、ベッドが揺れる、揺れる。自らは微動だにしていないつもりでも視界はぐらくらと蠢いているのだから、あまりにも騒々しい。
 でも、それが存外、心地の良いものでもあることを司書は学んでいる。なので、追い出そうとも思わず、袖で隠れた指と指をくっつけて次に吐き出す言葉を吟味していた。

「君が本当に欲しいものをあげられたら良かったのだけれど」

 二人で(もっともあれは司書の意思に関係のない、中原の独断行動に違いないのではあるが……)海に沈んだあの日から、中原はいやに優しいのを司書は感じ取っている。
 それに溺れてしまわないように、あくまで注意しながら危ない橋を渡る司書の胸中など、彼には理解し得ない。

「でもそれは無理だから」

 吐き捨てるのと同時に司書がやんわりと己の下腹部を撫でるのを見て、中原はどこか、心臓の底で後ろめたいことをしているような、取り返しのつかない行為に出たような焦燥感を抱いた。
 咄嗟に口篭り、息を呑む。どんなに性自認の対話をしたところで、それを踏まえて結ばれたところで、肉体の壁が重くのしかかってくる現実にぐらりと目眩すら起こりそうだった。
 男として生涯を終えたい彼が、己のために子を持ちたいと悔いている。その事実は、不謹慎ながら、嬉しいのだ。安直ではあるが。

「勝手にオレが欲しがってるものを決めつけんじゃねーよ」

 だからこそ、粗暴な物言いのまま、強引に司書を抱き寄せたのである。

「おまえは気付いちゃいないだろうが、オレは既におまえから色んなもんを貰ってんだ」

 ……嬉しいのだ。安直に喜ぶ自分がいるのだ。けれども、それを許容してしまったら、司書の本質が風化して崩れてしまう。彼を彼たらしめる自我が、彼ではないナニカに変貌してしまうのだ。
 中原はそういった事が人一倍耐え難い。己が確固たる意志を持っているのもあるが、それ以上に他者の生き様を曲げてしまうのは自尊心が許さなかった。

「だから、本当に欲しいものはあげられないなんてふざけた言葉は、二度と言うんじゃねえ」

 それを踏まえた上で、中原は乱雑に司書を抱いた。強すぎるくらいの力でぎゅっと抱きしめて、もう何も言わなかった。
 司書は中原の胸に顔を押し付けられながら、うんともすんとも言わず、痛いとも言わず、ただただ閉口している。
 中原は依然として何も言わぬまま、己の腕の中にいるちっぽけな命の灯火が、どうか気高く燃え盛ってくれるようにと、一人の男として冀望していた。
 秒針の刻む音だけが、お互いの耳に届けられている。

 中原は今はただ、幸せを尊びながら生を謳歌して、孤独に絶えず寄り添っていけばそれでいいのだと思っているのだ。
 幸福とは言えない身の上同士、不器用に前に歩いていけたら、それでいいのだと。
 生前父から与えられた火傷のある踵は、過去のことなど気にも止めないと言わんばかりに敷布団の上で居眠りをしていた。
 春はまだ長い。





2017/04/29
誕生日記念。
色々考えた結果、これが一番彼らしい気がしたのであえて何もプレゼントしていません。


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