赤に交わる


 目の前で人が死に至る光景を拝んだ。突如鮮烈な音を立てて侵入してきたあの人は、婚約者だったはずの彼をナイフで刺し殺す。殺人鬼の手際は驚くほど良く、あっけに取られている私は思考を整理するいとまも与えられないままに森の中を駆けていた。
 レースが枝葉に引っかかり、そのたびに立ち止まりそうになる。けれど不思議と体は止まらなかった。無理矢理に破れたそれはびりびりと音を立て、私達の痕跡を残していく。
 キラさんはなにも言わないまま、全身にべっとりと浴びた血を拭いもしないまま見知らぬ協会へと私を連れ込んだ。ただひとつ私が理解している事は、この人は先刻に人間を、王族の彼を殺害したのだということ。息をするように、そっと、残忍に、けれど慎重に、糸をたぐるように。
 私はどういうわけか心臓がドキドキして止まなかった。口元の筋肉は相も変わらず情けない。へにゃへにゃとしている。きっとこらえ切れていないのだろう、

(なんでなの)

私は笑っていることを、こらえ切れていないのだろう。
 すっかり襤褸になったウエディングドレスは、とてもじゃあないけれど美しいとは言えなかった。でもそれももう気にならなかった。目の前で立ち尽くすキラさんをじっと見つめながら、その血が乾ききってしまう前にちゃんと拭かないと、だなんて、呑気な意見を抱いている。

──穢れることを選択するのか──

 耳元でニャモちゃんの声がした。返事の代わりに、下ろされた右腕の人差し指を曲げる。ニャモちゃんの雰囲気は良くない。少し機嫌が悪いかもしれない。鰹節をあげたらなおってくれるかな。
 私が微笑んでいる事実は、すっかり暮れた日が隠してくれているに違いない。昔々に数多の新郎新婦を見送ったであろうこの協会も、今や面影を残していなかった。ほとんどガラクタだらけで、ちぐはぐで。

「これを……」

 ちっぽけな脳みそで思案しているうちに、キラさんはいつの間にか橙色の宝石を私に向けて差し出していた。脳裏をよぎる、事切れてしまったあの人。キラさんも彼と同じように私に向かって、シンプルで、でもどこか愛らしいデザインのそれを捧げようとしている。この、しようもない私に。

「ごめんなさい」

 口の中はからからで、今すぐにでも水が欲しかった。ウサギの耳に轟く心音は、最早爆発音に近い。

「……って言えたなら、貴方も私もきっと、幸せなままでいられたのにね」

 キラさんの表情はよくわからない。その仮面の奥に隠された右目はどうなっているの? どんな気持ちでこんな行為に乗り出したの? 湯水のごとく疑問ばかりが浮かんでは、シャボン玉のように弾けて消えていく。
 一瞬だけ、目を伏せた。直視出来なかった。言うことを聞かない唇はぶるぶると震えていて、言葉を発するだけでいっぱいいっぱいになる。

「でも私は結局、……結局自分が一番可愛いから」

 ニャモちゃんは泣きそうな顔をした後に、そっと私の頭を撫でた。
 そういえばキラさんはニャモちゃんのこと、見えてないのかな。知らないのかな。知らないだろうな。
 私達、知らないことばっかりね。

「貴方がずっと好きでした。私をどこか遠い遠いところへ連れて行ってください」

 どうせ私のことも、あの首達みたいにコレクションするつもりだったんだろうに、何でこうなっちゃったのかな。後悔先に立たず、後の祭り、……違いない。
 ダリに怒られるかな。ニャモちゃんも怒るかな。っていうかもう、諦めちゃってるね。耳がぺたんと垂れちゃってるもん。でももういいんだ、誰かの気持ちを代弁して行動することは終わりにしよう。
 私だって、私だって私の意見を肯定したいの。好きにいきたいの。

(……そう、いきたいの)

 指輪の入った箱を半ば強引に奪い取ると、キラさんの懐に飛び込んだ。そのまま背に手を回して、小さく息を吐く。鉄の匂いがする。鉄と、脂の。死人の香り。

(人殺しの香り)

 キラさんは「汚れてしまいますよ」と言いつつも、空いてしまった手の行き場が見つからない様子のまま空中で上下させていた。しかし、やがて定位置になる私の背中へと添えられる。戸惑いつつ布越しに触れる彼の手のひら。人殺しの、手。

「これからたくさん汚れるから、いいんです」

 そのまましばらくの間抱きしめあっていた。ニャモちゃんは無言のまま辺りを漂っている。彼は私の守護神になってしまったばっかりに、私から離れられないのだ。
 金色の眼を猫のように(そもそも猫の神獣なのだけれど)尖らせて、追跡者がいないのかを観察しているらしかった。

「ねえキラさん、私の本当の名前、言いますね」

 いとしいという日本の言葉は、かなしいという言葉と同意義だ。
 ……キラさん、いとしいよ。愛しくていとしいよ。私のためにまた血で血を洗うことになっちゃう貴方が、すっごくいとしい。

「リラシー・ライラック。……これが私の本当の名前。これからは、ライラックの部分は貴方の姓を名乗ることになるのかな」

 乾燥した唇が割れた。ちょっとだけ痛かったから舌で舐める。血の味がした。
 ああ、ダリが舐めると余計に酷くなるなんて言ってたっけ。じゃあもっと割れちゃうのかな。
 キラさんの目はビー玉のように丸くなっていた。突然本名を告げられたことに関してか、姓を指摘したことに関してかはわからないけれど、狼狽えている風に見える。

(可愛い人)

「私達、まだお互いの本名すら知らないのに」

 すっかり荒廃した協会の傍らには、紫色のライラックが一輪だけ咲いていた。

「もう、誰かのライラックでいなくていいのね。嬉しいわ、キラさん」

 橙色の宝石がはめ込まれた指輪は、不思議とサイズが合っていた。





2016/12/20
執筆日は18日。
お返事です。つまり駆け落ちしようぜ!ってことです。
首斬りさんの本名は明かしても明かさなくてもどっちでも大丈夫です。リラにとって名前は呪いのようなものだったから。
紫色のライラックの花言葉はなんでしょうね。

ALICE+