愛と思想

 ──誰かが言った。恋はするものではなく、落ちるものだと──

 何のことはない。ただ崇高なる頭目から仕事を賜った、それだけだった。武装探偵社、ポートマフィア、ギルドの三組織をうまい具合に引っ掻き回してほしい、と。溶けだしている板チョコをペチカの側で食んでいた僕は、燃え盛る炎から彼に目線を移しつつ承諾したことを覚えている。
 フェージャの顔色は相変わらず宜しくない。象牙色の肌は触れるとすぐさま壊れてしまいそうな、どこか近寄りがたいような退廃的印象がある。
 
「その隙にぼくが…………を……しますから」
「なるほど。さすがフェージャ。仰せのままに、いくらだって動きましょう。僕はクラゲであり、貴方の鼠でもありますから」

 そう、鼠。僕は彼の鼠だった。溝鼠でも二十日鼠でもない、僕は海にいる鼠に過ぎない。可愛げのない生き物である海鼠が僕には適任だった。
 最悪自爆してでも成果を持ち帰ろう、が心胆にある僕は──図ってはいないが──フェージャのお気に入りで。こうして対面して仕事を頼まれることが多かったのだ。
 ああ、その名誉たるや!
 崇拝せずにはいられない彼の思想、狂気、そして行動への参加権を与えられるなど僕にはあまりに光栄すぎた。

「ええ、ぼくのかわいい海の鼠。水面に浮かぶ月。今回も結果を心待ちにしていますよ」
「恐悦至極です」

 光栄すぎた、はずだった。有り余る幸せを胸に、僕は日本行きへの飛行機に乗り、一般的事務員として武装探偵社へ諜報員らしく潜り込んだだけ。適当に中身を掻き乱し注意をこちらに向け、その間にフェージャが例の物を持ち去る。それだけで終わるはずだった。
 なのに。


 なのに、なのに、なのに。どうしてこんなに胸が苦しいのだろう。怪我のせいか? 否、それは有り得ない。この程度で肺を掻き毟りたくなるほどの切迫を味わってたまるものか。
 ふうふうと口呼吸をしている傍ら──確か名前は江戸川乱歩──そう、江戸川とかいう野郎が僕の手を自身の肩に回している。
 予期せぬギルドからの襲撃。対応しきれなかった僕らは、駄菓子屋からの帰り奇襲を受けてしまった。信頼を得るため反射的に江戸川を庇うが、避けきれなかった僕は右肩に銃弾をモロに喰らってしまう。
 焼けるような痛みに歯ぎしりしつつも江戸川に安否を尋ねると、こいつは開いているのだか閉じているのだかわからない眼を途端かっと開いて、エメラルドのような美しい、艶やかな瞳を外気に晒してみせたのだ。

「超推理」

 黒縁の眼鏡をかけながら呟いた江戸川は、何やら興奮した様子で僕に語りかけてくる。適当に流しながら胸のつっかえ、その原因に心当たりがあるのかを考えてみるもののやはり記憶にはなかった。

「敵は次に脚を狙う。だからあそこに潜んでいる」

 高揚感は伝染する。江戸川が指さした瞬間、僕は一秒だって考えないまま、無意識に記された方向へと飛び出した。




 あの日、同じ場所同じ時間同じ環境にいなければ。
 あんな奇襲に合わなければ。
 あいつの、咄嗟の機転が効かなければ。
 僕は崇高なる頭目を裏切らなくて済んだのかもしれない。

 ──恋とは、精神病の一種である──

 行動も言動も小学生並みで、しかし頭脳は誰よりも長けているこの男に心奪われるなど、あってはならないはずなのに!

 ──恋は病に違いないのだ──

 渇いた苦笑をこぼして、僕は一人星を見上げている。探偵社の人間は恐らくもう誰も残っちゃあいないだろう。残っていたら、僕が困るのだ。

(こんな胸中を知られるなんて、困る)

 社長にいつ打ち明けようか。僕は本当はフェージャ……いや、フョードル・ドストエフスキーからの刺客でした、だなんて。首が飛ぶに決まっている。

(でももう、無理だ)

 手のひらを開閉しながら、狭い東京の夏空を眺める。ここは空気が美味しくないから、ロシアが少し恋しかった。

(こんな病にかかるなんて聞いてない)

 フェージャ、ごめんなさい。
 耐えきれず漏らしてしまった真理は、いずれ探偵社全員の耳に入ることとなる。でも僕は異能力者じゃあなくてただの一般人だから、そのような未来には気付かないまま、不格好な、サイズの合っていないダークスーツを翻して自嘲気味に笑うのだ。
 僕は貴方の高貴な思想よりも、手に入るのかすら不明瞭な愛を望んでしまっている。
 惚れた男に偽りの自分を出し続けていられるほど、強い男じゃないんだよ、僕は。



2016/12/19
過去であり導入。

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