雨と鼠達

 その日は雨が降っていた。視界が烟ってしまうくらいには、強い雨が。

 男は荒廃した建築物にがっくりと項垂れながら、濡れたコンクリートを背もたれに荒々しく呼吸している。酸素が足りない様子で、時折うとうとと瞼を垂れていた。しかし今男にもっとも足りないものはと言うと、酸素などではなく──人体を絶え間なく流れる──血液、に異ならなかった。
 ウシャンカは水気を吸ってぐっしょりと濡れており、普段よりも頭部が重たく感じられる。腹部ど真ん中、へそを撃ち抜いた弾丸は傍らに転がり鮮血が地面へと滲み出していた。
 すっかり疲弊した態度でため息を零す。此処は故郷よりも幾分か暑いと感じていたが、現在は何故か肌寒いのだ。ぶるぶると震えたくなる気持ちをこらえつつ、男は左手をへその方へと伝わせる。指先に付着するのは己の身から溢れ出すヘモグロビンに相違ない。

「うわあ、死人だ」

 反射的に顔を上げた。先刻、救いの道へと導いた──異能者──その者の首を見下げる、一人の人間の姿が雨の中にある。男は内心で再びため息を吐く。面倒なところを見られてしまった、と薄ら思っていた。
 人間は傘も刺さずずぶ濡れのまま、こちらへと音を鳴らしながら近づいてくる。水溜まりをぺちゃぺちゃと踏む姿は、距離が狭まるほどに明確に区別できた。短髪の女性だったのだ。
 歳は恐らく自分よりも下で、身長は……この国では平均より低いが、けれどさほど気にする体でもなかろう。猫背気味に、左右へ揺れながら両足を大雑把に出して歩いている。
 奇特。それが最初に抱いた感情だった。

「あなたは大丈夫ですか」

 彼女と己との距離間は、もう遠くなどない。女は腰を地べたへ下ろすとこちらへ目線を投げかける。
 一般的な日本人らしいタイガーアイだった。短い黒髪は雨のせいで顔や首にベッタリと張り付いており──自分ほど長くはないが──煩わしそうな印象を受ける。

「ええ。少し油断しましたが、この通り平気ですよ」

 簡潔に応えると、女は小さく喃語を漏らす。

「怪我をしていますが」
「平気です」
「出血がひどいですが」
「平気です」

 いたってシンプルな問答を二度三度と繰り返してやると、彼女はゆっくりと瞬きをして、唇を結ぶ。何か言いたげで、しかし腹の底でどの言葉を吐きかけるか迷っている風な態度をしている。
 男は意識がぼんやりとしていた。血が足りなくなってきている。早々に立ち去りたかった。

「悲しそうな顔をしていますが」

 立ち去りたかったけれど、女が吐いた問いかけに驚愕し、心臓が大袈裟に跳ね上がる。どくり、と高鳴るその名を彼はまだ知らなかった。
 妙な興奮状態。全身の毛が一斉に逆立つような、小気味の悪い感覚。

「……悲しい、かもしれません」

 次に鼓動が跳ねたのは女の方だった。ひく、と唇のはしが動く。会話に慣れていないのか、何度も口をもごつかせている。

「それは何故ですか」

 男は閉口した。どう応えるべきか、数秒の間悩みが生じたのだ。

「何故、と言われましても」

 へにゃりと不格好に曲がった半月型の口。彼の目に女の姿はなかった。

「この世が、あまりにも罪深いものであるから」

 女も口を閉ざした。耳元ではザアザアと雨の銃弾が放つ轟音が聞こえている。お互い濡れ鼠の状態で、雨がやむのを待っているようにも見受けられた。
 彼女は男へと手を伸ばし、そっと白い肌に触れる。親指の先は頬に、残りの四本は首の下へと添えられる。

「僕もお兄さんと同じ気持ちかもしれません」

 女の言葉に、男は多少動揺した。血の足りない頭ではまともに思案することも出来ない。彼女の台詞がはたして本心か、そうでないのか。それを断定するための根拠が、この時点での男には存在しなかった。

「貴女はどうしたいのですか」

 次に問いかけたのは男の方だった。

「僕、……ぼく、僕ですか」

 刹那、伏せられる眼。黒いまつげは幾度も抜かれたらしく、変な生え揃い方をしている。
 女はぼく、と五度ほど呟いていたが、やがてそっと顔を上げ男に視線を向けた。ぶつかりあう瞳。男の目には、女の姿形が映り込んでいる。

「僕は」

 彼女の口はへの字に曲がる。

「一度この世界をまっさらにして、平等な世界に作り変えたい」

 こんな世界、もう嫌なんです。
 嘆きを零すみたいな声色は、男の目的に沿うそれにあまりにも酷似していた。

「異能力があったところで、何一つ便利になんてなっちゃいないじゃないか」

 言い終えたところで、唇は三日月を描いた。無理矢理に張り付けた笑顔はどうにも拙くて、とてもじゃあないけれど見つめてはいられない。
 男は高調する感情の波に、一瞬ばかり目をつぶった。瞬きと同等の時間だけ、そっと目をつぶり──陰で歓喜の声をあげ──女に向かって手のひらを伸ばし、女が自らにすることと同じ行為を真似た。
 雨に濡れた肌は冷えている。人差し指の腹で黒い毛を拭ってやると、くすぐったそうに眉根を寄せた。

「ぼく達、意見が合いますね」

 ──書いたものを本当にしてしまう小説があると聞いたことがあります。僕は、それを探している──

 男は空いた方の、先程までへそを撫でていた血に濡れた拳で彼女の手を掴んだ。女はきょとんとした様子で男の行動を見守っている。

「ぼくと、罪の軛に満ちたこの世を救済しませんか」

 しばらくして、彼の唇は女の指先へと触れた。

「……」

 女の瞳がきゅっと縮まる。

「……僕も、それが言いたかったんです」

 しかしながら、驚いた態度のまま、嬉しげに言葉を放つ。それからぐっと距離を詰め、首筋に優しく口付けた。

「罪も罰も何も無い世界を、共に作りましょうか」

 神様がいないのならば、自らが神になれば良い。

 後にフョードルと名乗る男はロシア人で、とある組織を連ねる頭であることが判明する。女はそれを承知で飛行機に乗り込み、白紙の小説を探しに国を渡ることとなった。

 そう遠くない未来、あの日と同じ雨の匂いに焦がれる事になる真実に気づけない二人は、ペチカの傍ら、書類を囲って非現実的な未来を語っていた。
 異能なんて要らないのだ、と。





2016/12/21
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