誤解と興味


 黒色の羽織を揺らしながら、男はなにかを探していた。波風一つ立たぬ静かな水面のように、表情一つ動かさず、ただ目線だけを彷徨わせている。暫くして一点に目線を定めると、ゆっくり、物音を立てぬようそちらへ歩みを進めていった。人気のない路地裏のようだ。そしてその目線の先には一匹の黒い猫。その猫は、音もなく近づいてくる男の気配を感じたのだろう。にゃあ、と一声鳴くと、男の方へと近づいていく。顔見知りなのか、警戒した様子はない。
 白髪の男は己の前に座った猫をじっと見つめたあと、手に持っていた小さな袋から取り出したなにかを猫の前に置いた。猫は匂いを嗅いだ後、カリカリと音を立て、それを食べる。男は無言でその様子をじっと見つめる。カリカリという餌を噛み砕く音だけが暫く鳴っていたが、それ以外は風の音すら聞こえない、静寂だった。

「……福沢社長?」
 猫がそろそろ食べ終える頃、不意に後ろからその静寂を破る声がした。声をかけられ白髪の男ーー福沢が振り向くと、声の主はゆっくり近づいてきた。平均より少し低めの背丈で、長い黒髪の女だった。その小柄な体躯のせいで、女性というよりは少女の方がしっくりくるかもしれない。実際まだ若いのだろう。顔立ちもどこか幼さが拭い切れていない。
「……なにか私に用か」
 福沢が短く用件を訊くと、数歩近づいて猫に気づいた女があっ、と小さく声をあげた。
「うわぁ、可愛い。美人な黒猫さんですね……あ、すいません。えっと、偶然通りかかったというか、太宰さんがここを通るとコンビニに近いって教えてくれて……」
 黒猫をみた途端、緩んだ頬を引き締めながら女が言うと、福沢は内心首を傾げた。この路地からコンビニに行けるなど聞いたことはなかったのだ。だが、数秒考えて答えはすぐに出た。
「……コンビニなら恐らくこの次の路地だろう」
 今度は女が首を傾げた。言われた通りの路地に来たつもりだったのだ。迷子を目撃されたようで気恥ずかしくなったのか、ごにょごにょと俯きながら、数秒なにか呟いていたが、やがて顔を上げて福沢の方を見て口を開いた。
「……あ、次の路地でしたかっ間違えたみたいですね……えっと、それじゃあ失礼しますねっ……!」
「……また迷うかもしれない。近くまで送ろう」
 言うだけ言ってそそくさと立ち去ろうとする女の背になぜか福沢は声をかけていた。別に深い意味はないのだろう。単にこの先の路地が分かりにくいというだけだった。
「えっ……えっと、いいんですか?」
 一緒に来てくれるなんて、思いもよらなかったのだろう。女が目を丸くしながら聞き返した。それに対して福沢は小さく頷くと、煮干しを食べ終えた黒猫を一撫でして身を翻した。
「すぐだが、少し分かりにくい。……また迷子になられても困る」
 福沢の言葉に、否定しようかと口を開きかけたが、結局女はこくりと首を縦に振った。その後、二言三言話すと会話が途切れ、気まずい空気になりつつ、無事コンビニまで辿り着くことができた。女がほっとしたように笑って福沢の方を向き礼を言うと、福沢は気にするな、と一言だけ残し、踵を返した。その背を見て、女も店内へ入ろうと背を向ける。しかしその背に、福沢がまた声をかけた。
「……帰りは一人で大丈夫か」
 一瞬言葉につまった女は、恥ずかしそうに大丈夫だと告げる。そこまで方向音痴ではないのに誤解されているような気がしたのだ。今度こそ去って行く福沢を見送ると少し俯いて、恥ずかしさを振り切るように顔を上げた。そして、ふと考えてみれば自分も福沢を誤解していたと気が付いた。もっと気難しいと、思っていた。猫が好きなことも、初めて知ったのだ。知らないことだらけだと気づいて、少し興味を持った瞬間だった。




2017/01/01

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