開花の足音  





 率直に、不思議だ、と思った。
 優しい風が頬を撫でる。先刻に二人の人間と争ったばかりだというのに、妙に心は落ち着いていた。戦闘後に抱く心地いい高揚感は、今に限っては少しも湧いてこない。
 ソーンは石で作られた傾斜の強い階段に腰を下ろすと、傍らで横になっている一人の少女へと視線を投げかけた。

「キミ、なんて名前だったっけなぁ」

 独り言を零しながら、なびく桃色の髪へと手を伸ばす。己よりもずっと濃ゆい毛は自らのものと比べると線が細く、さらさらとした手触りに思われた。
 少女は気を失っており、ソーンからの問いかけに答えることはない。ただ、静かに、確かに呼吸をしている。胸がゆっくりと上下しているのが確認できると、教祖はわずかに息を吐いて空に目線を向けた。

「いや、知っているよ。言わなくたっていい。百日紅彩華ちゃんでしょう? もう知り合いみたいなものだものねえ」

  今日 こんにち は一等天気がいい。柔らかい陽射しは春の陽気を彷彿とさせる。まだ芽吹くには早いというのに、周囲に佇む裸木は淡い桃色の蕾を開花させんとしていた。
 弾けんばかりのそれは、見ていて気持ちが穏やかになる。


 黄昏教の匂いを嗅ぎつけた者に、奇襲を受けた。随分と前から念入りに計画していたのであろう彼らは、ソーンが一人になるところを狙って颯爽とその姿を現したのだ。
 二対一という不利な状況下、悪目立ちはしたくない一心でソーンはあえて攻撃をしないまま、相手からの追撃をかわす行為ばかりに集中していた。このような天候で一部分が凍結するのは、あまりにも不自然に思われたからだ。
 命を狙われるのには、御生憎様慣れている。なんせ世界を終わりに導こうとしている異常な宗教団体の頭だ、ただでさえ国同士で問題が絶えないというのにこれ以上余計な駒が増えては困るのだろう。
 いたって賢明な判断だと思ったし、相手の主張も理解出来なくはない。

──刹那、彼女が現れた──

 教祖が目を閉じる意思を持たない者であったならば、呆気に取られてぱちぱちと瞬きをしていたであろう。それほどまでに、少女の登場は突飛に思えた。
 声をかけるよりも先に、彼女はソーンを庇おうとする。

「っこら、キミ!」

 どきなさい、と発するよりも先に、彩華の頬と左小指に風魔法が牙を向く。かまいたち、とでも言うべきか。魔法が当たった部位はすっぱりと切れてしまう。



「不思議な子だね、キミは。ジブンがどんな組織の、どんな目的を持った人なのか知っていて助けたんだから」

 視線は依然空に向けたまま、手のひらをゆっくりと動かして彩華の髪に指を絡ませる。そよ風にたなびくぼろ布は、切り取った星空に似ていた。
 夜と昼が同時に存在しているかのような、そんな錯覚をしてしまう。


「そこをどくんだ! あいつは黄昏教の教祖だぞ!」
「い、嫌ですどきません!」

 嫌です、と再三口にした彩華に、ソーンは純粋な疑問を抱かずにはいられなかった。庇う理由が見受けられない、というのもあったが、……何よりも。

(……おかしいな、ジブンは以前この女の子を痛め付けたはず、なのだけれど?)

 初対面ではない上、あまり良い印象を持てない邂逅を果たしたはずなのに。それでもなお己を庇おうとする彼女の態度に、たまらず言葉を失う。
 柄にもなく動揺していた。



「キミがたとえ分かり合えると信じていても世界は、……いや、あるいは世間が風習が、歴史が」

 起こさないように、なだめるように、あやすように努めて優しく手櫛で髪をといてみる。彩華はすうすうと吐息を放つだけで、起きる様子はない。

「……愚直に、真摯に、ひたむきに、熱誠に、…………でも」

 ソーンは彩華に顔を向け、そっと瞳を開きかけ──やめてしまった。

「でももう、恐らくは」

 一瞬ばかり、口角が下がる。けれど一秒も持たないうちにいつもの笑顔に戻して、彼女の頭部から手を離す。

「困ったなあ」


 あの後、部外者を巻き込む訳にはいかないと判断した教祖は二人組を氷魔法で脅し、穏便に……いたって穏便に退散させようとした。
 しかし彼らは彩華の対応が気に食わなかったのだろう、あるいは彩華がソーンの味方であると認識してしまったのであろう、標的を彼女に変えてしまった。
 大木に向かって風圧で吹き飛ばされた彩華は間一髪ソーンに抱き抱えられダメージを負うことはなかったものの、ショックで意識を失ってしまう。
 だから、教祖は多少手荒に、二人組にお引き取り頂くことにした。



 ソーンは懐から水筒を取り出すと、彩華の左手をゆっくりと掴んだ。それから小指に向かって水をかけると、ハンカチーフでそっと水気を拭き取る。

「気休め程度だけれど」

 止血していることを確認するとたおやかに包帯を傷口にまきつけて、緩く結び目を作った。簡易な手当てを終えると、教祖は二度同じことを口にする。

「……困ったなあ」

 こんなはずじゃなかったのに、とすら思ってしまうジブンがいるのだ。
 行き場のない尻尾は、石畳に伏せられて動かない。下手に動かして彩華が起きてしまうことを避けているようにも捉えられる彼の行為の意味を知る者は、誰もいない。ソーン本人すら、その意味に気づいていない。

「ジブンはラグナロクの再来を成功させなければならないし、させたいという野望がある」

 緩やかに彩華の左手を地面に戻してしまうと、教祖はため息を吐いた。
 伏せたままの尾と──垂れた耳は、下を向いているばかりである。眼ですら、外の世界を見ようと思えていなかった。
 僅かな諦観と退廃した感情。

「なのに、キミを知りたいと思う己がいるよ」

 ソーンは身をもたげると、自らの顔を彩華に寄せた。呼気がかかりそうなほど近しい距離感に、少しばかり気後れしてしまう。

「ラグナロクが再来したら、何もかもが零に戻るのに。……無意味なのに」

 返ってくることのない思いを、胸のうちを静静と語る。
 やがて、狭まる隔たり。彼女の頬にできた切り傷に触れるだけの口付けを一つ、ソーンは贈った。祈るように、願うように、……期待の意を秘めたまま、口付ける。

「もしまた会えたのなら、キミのことが知りたい」

 ……そう、また、会えたのならば。

「教えてくれると嬉しいなぁ」

 教祖は顔を上げ、重い腰を上げた。空は天晴れ、雲のくの字も伺えない。
 春は遠くないのだろう。小鳥のさえずりが何処からか聞こえていた。
 咲くのは特異点への花か、従来の赤い血の花か。それを知る者も悟る者も、必要なんてないのだ。




2017/02/14
 百日紅彩華ちゃんに氷魔法の加護をこっそりかけさせて頂きました。彼女に被害が及びそうになると、その攻撃対象に向かってカウンターが飛んできます。どのような反撃方法なのかはお好きに描写して頂ければ幸いに存じます。
 ソーンが彩華ちゃんに語りかけていた内容や行為は、彩華ちゃんが知っていてもいいし知らないままでいてもいいです。知っている場合は狸寝入りになってしまいますが……(笑)




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