トランス



 唯一存在を許されるこの場所で、私は溺れていた。
 桃色の滴がぴしゃりと弾ける。自分の体毛と同色の水は太陽の光を受けて煌々と輝いていた。水面を揺らす原因は紛れもない私。遅れて湖に飛び込んでくるのは、右目に眼帯をした図書館の主である、彼。

 ずっと此処で楽しい時間が続くものだと信じてきっていた。他のみんなとは違う、言うなれば人魚のような身体を持って生まれてきた私に絶えず気をかけてくれる彼と、ずっと、此処で。
 全身に目玉が生えてしまう病魔に取り憑かれてしまった多眼病の彼は、私と違い地面を歩く確かな脚を持っていた。
 歩く事すら苦痛。彼の足の裏には大小様々な目玉が顔を覗かせている。なのに彼は歩く。私の代わりにしっかりと大地を踏みしめる。
 彼の思うことはよくわからなかった。そこまでするくらいなら私と一緒にこの水の中にいて欲しかった。
 お互い、噛み合わない気持ちにやきもきしているのは分かっている。なのにこの現状を打破する勇気が、なかった。

 彼は私の手を掴み、水上に顔を出そうとして必死にもがく。そんなことをしたって、無駄なのに。
 私は魚みたいな下半身から、水中の酸素しか取り入れることが出来ない。空中から酸素を得ることは一切出来ない。なのにどういうことか、今し方突然下半身からも呼吸することが不可能になってしまった。理由はわからない。もし誰かが原因を知っているのなら教えてほしいくらいだった。
 だから私の顔が水中から出たところで、もうどうにもならない。
 それを私の次に一番知っているのは彼のはずなのに、彼は懸命に水を足で掻いた。そんなことをしていたら貴方まで溺れてしまうのに。
 桃色の水は泡を吐く。ほんの少しだけ、真珠に見えた。
 あと数秒で彼は力尽きる。その後は、私と共に底へと沈んでいくだけだ。そうなる前に手を離してほしいのに、彼は私の手を痛いくらい強く握ったまま離してくれない。放して、くれない。解放してくれない。

(どうしてなの)

 この結末が、もう幾度繰り返したかわからないこの悲劇が、この一回で終わりを告げてくれたらいいのに。

(どうして、貴方はただの一度も私を見捨ててくれないの)

 貴方さえ生き残ってくれたなら、私はそれでいいのに。
 死ぬ事は怖くない。この世界に生まれ落ちてしまった時点で、悲惨な最期を迎えることは覚悟していた。元の世界で未練を残したまま魂の状態で漂っていた私を、半ば強引に蘇生させた月神様の力は、当時も今も未熟だった。幸せな最期を迎える事など到底叶わないと受け入れていた。
 でも、こんな結末を迎えて、それでまた同じ終わりを繰り返して。毎度違う終わりを迎えることすら出来ないのは、流石に、つらい。
 きっと記憶が繋がるよりも前に、何回も、何度も、彼は私の手を握ったまま。そして私もまた、彼に手を握られたまま湖の底で。
 私は運命がめぐる度貴方と一緒にこの湖に潜りたいと願ったけれど、こんな形で叶えられたって残酷なだけ。

 ごぽり、肺に水が溜まる。意識は朦朧としていて、彼の姿すらちゃんと映せていない。
 私は渾身の力を振り絞って水を掻いた。体が前に進む。淡い桃色の水は再び泡を吐き出している。
 苦しげに溺れていた彼は咄嗟に私の方へと振り向いた。彼の左目は動揺の余り瞳孔が開いてしまっている。初めて見る表情だった。
 そりゃあ驚くでしょう。だって、私が自分から水上に向かって泳ぐだなんて今までしたことがなかったものね。
 彼はとても重たくて、正直無理なんじゃないかって思ったけど。でも、今度は私が貴方を向こうに送り届ける番だから。
 貴方だけでも、助けたいの。

 どれくらい水中でもがいていたことだろう。顔を出した頃、外の世界は私の知る世界ではなくなっていた。困惑する思考を必死に落ち着かせながら、地面に彼を寝かせると首を回して周りを観察する。
 草木は枯れ、辺りには腐敗して溶けた果肉が腐乱臭を撒き散らしている。反射的に咳き込むと、呼吸が整ったらしい彼はいつの間にか体を起こし、私の背を優しく撫でた。

「よく頑張ったな」

 そう言う彼の言葉に、ハッとする。水の外でも息が出来ているという事実に、気づいてしまった。
 ああ、そういえば、幼体と成体で住む場所が変わる生物がいると彼から教わった気がする。彼はひょっとして、私の体質に気づいていたのだろうか。
 そう思うと、今まで彼を見殺しにしてきた過去と私がたまらなく許せなかった。
 ふっと目を伏せていると、彼は優しげに私の頭を撫でた。水を吸って触り心地もなくなった毛を、甲斐甲斐しく撫でた。



「さて、これからどうするべきか」

 彼は腕を組みながらそう言うと、小さく呻いた。遠くからごうごうと火の手が迫る音を聞いているのに、冷静な態度で思案に耽っている。
 とりあえず、この世界に何が起きてしまっているのかが私は知りたい。私と彼が溺れている間に何があったのか。どうして世界が崩壊しかけているのか。
 状況を把握出来ずすっかり萎縮した私の側で、彼は夜空を見上げた。

「水母、空を見ろ」

 釣られて空を仰ぐ。息が詰まった。どこを見ても、私達が見知る月の姿が見当たらない。
 さあ、と血の気が引いた。

「月神様に何かあったのね」
「そうらしいな」

 世界の均衡を保つ彼女に何かあったのなら、この崩落も納得出来る。私は彼の方へと向き合った。

「何が起こっているのか、確かめなきゃいけないわ」

 この目で確かめて、助けなければいけない。それが私達KURAGEに出来る、無二の親孝行だということをみんな知り得ている。
 でも、私は湖から出ていけない。……そう思っていた。今までは。

「行くぞ」

 大いなる一歩、だなんて大げさすぎるかな。
 朽ちた大地を踏みしめた私の足は、彼やみんなと同じ二本足に変わっていた。みんなと違って、ウロコはついたままだけど。
 歩き方がわからない私に手を貸してくれる彼へ「ありがとう」を伝えると、面食らった表情の後に視線を逸らされてしまった。
 じりじりと肌の焼ける感覚がする。遠くにいたはずの炎が、近くに迫っている。

「今度は、俺が助ける番だ」

 彼が発した独り言を聞いた時、私は即座に理解した。
 記憶を喪失しないまま運命に抗おうとしていたのは、私だけじゃなかったんだ。




2016/04/25
水から陸へ。



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