トラジック・ラヴ 月光を遮る木々の葉は、青年が音楽を奏でる毎にかさりと揺れた。それは振動によるものではない。青年の音に反応して、植物は自ら動いていた。 彼の傍らに佇む全ての生命は、青年のバイオリンから紡がれる旋律に呼応せずにはいられなかった。 曲が展開される度に、植物は生い茂っていく。樹木に絡み付く蔦(つた)は背丈をぐんぐんと伸ばしていき、手の届かない場所へと到達する。 その蔦の一本は、青年の側でうずくまっていた少女の首へと伸びる。くるりと円を描き、彼女の喉元を締め上げていく。 少女の体は次第に宙へと浮いていく。蔦は遠慮を知らず、彼女をぎりぎりと追い詰める。少女は足をばたつかせた。空を掻いていた両腕を首へとやり、何とか己を責める蔦を掴む。けれど無駄な足掻きにしかならず、少女の表情はだんだん虚ろなものに変わっていく。 口から白い泡が垂れる。白目をむいて、びくりと一度全身を震わせた。鼻水を流す。抵抗を失い始めた体はリミッターが切れ、彼女の足を黄色い液体が伝った。 少女が事切れる寸前で、青年は演奏を停止した。すると途端に蔦は力を無くし、少女から離れていく。少女は朦朧(もうろう)とする中地面に叩きつけられた。 青年は口角をつり上げる。歩み寄ると腰をおろし、少女に向かって微笑んだ。 「……で? まだ死にたいって言うのかな?」 言い終えると同時に、青年の腰から伸びる、ハートの形を逆さまにしたものを黒い針金の先に引っ付けたような尻尾が少女の顔を軽くはたいた。 少女は喉の奥から掠れた呼気を漏らすのみで、返事を寄越す気力を残されていない。 青年はそれを知った上で、言葉を繋いでいく。 「キリコちゃんは可愛いねえ。大好きな絵が描けなくなったからって、僕に死にたいなんて打ち明けてくれるんだもん」 笑いを堪えきれない青年の声色は、震えている。 「そのくせ僕が君の苦しみを消すために一曲弾こうとしたら、拒絶するだなんて。人の好意を無下にする君は本当に駄目な子だね」 言いながら、青年はキリコと呼んだ少女の頭をわし掴んだ。そのまま自分の顔元まで持ち上げると、目線を合わせてわざとらしく再三微笑む。 キリコは何か言いたげに唇を動かしていたが、それが言葉になって表に出てくることはなかった。 ただぼんやりと、微睡んだままに青年の口から吐かれる単語を着実に汲み取っていく。 「本当に君は駄目な子……悪い子だね。一千年に一度の大天才である音楽家、遊(ゆう)様の曲を聴きたがらないなんて!」 言葉では悪態をついているように見えるが、遊と名乗った青年の表情は俄然明るいままだ。 「でも僕はそんな君が大好きだから、君に魔法をかけてあげるんだ」 魔法、その一言を聞いた少女は仄かに目を見開く。遊の顔色は変わらない。 青年はキリコの唇に顔を寄せると、そのまま口付けた。なんという訳でもない、単純に触れるだけの接吻だった。 直後、二人が触れた箇所が一瞬だけ赤く光り、それが粒子となって弾け飛ぶ。少女の体はみるみるうちに健康さを取り戻していく。首に映えた赤い痕はふっと失せ、呼吸は安定したものになっていった。 回復していくキリコを見た遊はますます機嫌を良くしたようで、無意識に喃語(なんご)が漏れていた。 キリコは数回息を正すと遊を見た。燕尾服を着崩している彼は、全体的にだらしのない印象を受ける。しかしながら、こちらをじっと見据える隻眼はハイライトが灯っておらず、何を考えているのかが全く読めない。それが妙な恐怖心を煽る。 「話せる状態になったのに、何も言わないつもりなのかな?」 気分が高揚している遊は酷く感情が高ぶっていた。キリコは眉間にしわを寄せる。いかにも不快、と言いたそうな顔で遊を見つめている。 けれど意外なことに、彼女の口から出てきた言葉は見当もつかないものだった。 「遊、あたしもう帰る」 「おや、それはまたどうしてだい?」 「眠りたい」 言い捨てると、キリコはふらふら立ち上がる。目元を手の甲で擦ると、ぼやける視界のまま遠くを見渡した。木の幹に生えるキノコが淡く発光していた。 遊はキリコを引き留めない。彼は昂揚した気色の余韻に夢中だった。羊水に浸かっているような奇妙な安堵感が、青年の心の内側からひしひしと染み渡っていく。 やがて少女の姿が完全に見えなくなってから、遊はふと我に返る。それからため息をこぼし、辺りに置いてあった楽譜や楽器類の片付けに取りかかった。 「あっちは人食い花がいるんだけどなあ」 不穏な独り言が少女に届くことは、なかった。 これから数分後に遊はキリコの跡を追い、捕食される寸前の彼女を気まぐれで助けることになる。 悪魔は気分屋だ。人を破滅に導くか幸福に導くかは、彼らのその時の気分で決まる。 今回のこの時も、この時ばかりは、そうに違いなかった。 2014/07/14 音楽家の悪魔と描けない画家。 |