福音の名の下


 空華という知識人がいた。読み方はフーガ。空の華、と書いてフーガと読むらしい。僕は皮手袋に覆われた拳でごしごしと目尻の血液を拭いながら、ぼんやりと彼のことを思い返している。

 空華は名前にそぐわぬ醜い青年だった。心が、ではなく外見が醜悪であった。元々天使だった僕も思わず眉間にしわを寄せてしまうくらいには、気持ちの悪い見た目をしていた。
 頭上には羽虫を思わせる一対の触覚。例えるなら蝶々のそれに酷似している。眉間には、これまた昆虫によくある単眼と呼ばれる器官がそっと佇んでいるし、ひし形の、どこを向いているのだかわからない右目は四つ、円形の左目はいくつもあって不気味さに拍車をかけていた。
 背中にはトンボのような透明の薄っぺらな羽。尻尾には青い炎をともしている。偉い学者みたいな衣服をまといながら、古書を片手に常に読書に入り浸っていた。

 そんな空華が、息を切らして僕の元へと駆けてきた。ただならぬ様子で、両方の口の端についた牙をかっと開いて「信じがたい事実を発見した」と声を荒らげてみせたのだ。
 僕はそんな空華に恐れを抱きつつも、やっぱり目から流れる血がうっとうしいが故に皮手袋で拭きながら、彼を落ちつかせたくてあえて冷たい反応をした。とりあえず落ち着きなよ。すまぬ、気が動転した。コーヒーでも飲むかい。酔っぱらうから必要ないのである。そんな会話だった。

 彼が言うに、この世界は──厳密に言うと海夜と海月と海星が創り出した世界は──何度も同じ運命を辿り、それをただひたすらに繰り返しているらしかった。
 僕はこれでも天使だ。だから有り得ない、と言った。信じられないとも口走った。僕が現役の頃いろんな世界を見て回ったけれど、幾度も同様の輪廻を巡るだなんてとてもじゃあないが見当たらなかったのだ。
 だから否定した。有り得ない、と。
 それでも空華は諦めなかった。薄汚れた学士帽を傍らに放り投げ、懐から赤いカバーのついた本を取り出し僕に詰め寄った。
 そうして言って聞かせてくれたのだ、この世界の様式を。





「それなら俺は、悪魔なんてやめてやる!」

 吠えるような声色。慌てて駆けつけた僕らの目の前には、戦う力など端から持っていないぬいぐるみ達を背にした天道の姿があった。全身の毛が逆立つ気迫のある言葉に、僕らはたまらず息を呑む。
 彼は全身生傷だらけで、傷口から青い血を垂らしながら三つの左目で相対する者達を睨んでいた。本人はすっかりボロ布のごとく擦り切れてしまっているというのに、ぬいぐるみにはほつれが全く見受けられない。あっぱれ、と声をかけてやりたくもなる。
 天道と向かい合っているのは、悪魔の──確か……ええと……そうだ──遊と諭吉に違いなかった。諭吉の方は昔と変わらずだらけた様子で黒髪のような触手をくねらせながら、くありと欠伸をしている。

(今となっては、……いや、今も懐かしい、僕が天使だった頃の記憶)

 苦笑。それ以外の行動が取れなかった。
 遊の方は何やら興奮した様子でベラベラとまくし立てているが、その言葉に正当性など一つもない。愉快と言わんばかりに目を細めながら悪魔がどうだ、天使がどうだ、ならお前は何になる気だ、と楽しげに天道の心の傷をえぐっている。
 悪魔は人を揺さぶるのが大好きなのだ。そこに悪意は無い。……純粋な好奇心のみ。そう、好奇心のみなのだから、恐れるし畏れる他ない。

 これ以上は天道がかわいそうだから、空華の腕を掴み三人の間に割って入った。僕はともかく空華は戦えるのだろうか。この世界の“住人”だから、死ぬかもしれない。

(でも空華の言うことが本当であれば、……無事に成功したら生き返るだろうし、まあいいか)

 悪魔よりも天使の方が冷たいのだと、誰かが言っていたっけな。
 旧約聖書で記されているに、悪魔が殺した人の数は僅か十、それに対して神は二百四十万だそうだ。なるほど、神の配下にある天使が冷たいと言われるのにも納得出来る。
 でも僕、堕天使だしなあ。

「面倒だな」

 思わず本音が漏れた。かわいた唇から紡がれた小言に、三匹は呆気にとられてしまう。

「……は?」
「え?」
「あ?」

 天道、遊、諭吉の戸惑う声に堪えず口元が緩んだ。横で空華が何か喚いているが気にする必要もあるまい。
 僕はこぼれ出した血の涙を相変わらず忙しなく手の甲で拭きながら、横入りされた挙句いきなり負の感情を突きつけられ狼狽する悪魔達を順に見遣った。
 天道の下で怯えるぬいぐるみ達には、こっそりおまじないを掛けておこう。そっと親指を向け、呪文を心内で唱える。あなた方に、数多き幸があらんことを。

(幸で思い出したけど、もう一匹の悪魔……幸の姿が見えないな。別行動か)

 冷静さを装いながら慎重にプランを練りつつ、横で立ち尽くしている空華を肘でつつく。空華はびくりと肩を震わせると、対面する悪魔に小心翼翼としながらも懐から書籍を引っ張り出した。

「面倒だな、一等面倒だ。でも僕ほら、元天使だから……悪魔の妨害が仕事だから」
「お初にお目にかかる、我輩の名は空華。……月神様に何をなされるおつもりか」

 空華は聖書を固く握りつつ、合計何個あるのか知らないたくさんの眼で悪魔を射抜く。ヒュウ、と遊が口笛を鳴らした。なめられている。あまりにも癪である。
 背後にいる天道の表情はこちらからは伺えないものの、纏う気配が幾分柔らかくなり安堵した。どうやら味方だと察してくれたらしかった。
 頬を冷たい風が撫でている。

「お、お前ら、俺を助けてくれるのか」
「助けるも何も、このままじゃ危ないんでしょ」
「いかにも、我輩は貴殿の味方である」

 僕も空華も後ろは向かない。口だけで返事して、悪魔達の行動を観察している。
 二人とも針金のような尻尾が左右に揺れていた。メトロノームの針のように、右と左を行ったり来たりしている。興奮しているのか、はたまた妨害されて不機嫌なのか。……中断されて楽しいのか。悪魔の気持ちなど、僕には理解し得ない。

「ていうか、戦えるんだね。空華って」
「何を!? それを知らずに此処まで連れてきたのであるか!?」

 馬鹿なことを言うな、と叫びそうな顔で空華は閉口した。絶句しているのかもしれない。

「君の言うことが真実ならば、死んでも大丈夫でしょ?」

 言いながら笑いかけると、呆れ返った様子で己の耳を右手で掻く。我ながら偽善的にもほどがある、嘘偽りで塗り固められた微笑だと思った。

「命を紙幣のように扱うのは止すのである……」
「ほら僕堕天使だし」

 合理的思考を持っているのだよね、とほくそ笑むと空華は苦々しい表情になり、もう何も言わなかった。僕は心中で首を傾げる。噛み合わない会話だ。ヒトの考えることも、天使には分からないのだろう。

「……さて。久しぶりだね、諭吉」

 駄弁もさておき、僕は目つきを尖らせながら悪魔のうちの一匹に声を張り上げる。名を示すと、呼ばれた彼は一等やる気なさげに大きくため息をこぼした。
 鮮血みたいに真っ赤な眼。黒目はさながら蛇のよう。でももっと蛇らしいのは、彼の髪の毛じみた細くて長い数多の触手達。
 今は地獄でお勤めしているらしいが、詳しいことなんて知らない。興味もない。

「…………なんでいるのかねぇ」

 呟きながら、諭吉は気だるげに軍服のポケットから煙草を取り出し、静かに火をつけた。くねる白煙。今も喫煙しているのか。

「……メンドーだから戦いたくねえ」
「奇遇だね、それは僕らも同じだ」
「勝手に巻き込むのはやめてくれまいか」

 何かぼそぼそとほざいている空華の口に手のひらを被せる。牙が食い込んでくるが、皮手袋のおかげで痛くはなかった。
 隣でうんうん唸る片割れを尻目に、僕は諭吉から目を離さない。彼は煙草をふかしつつ、ゆっくりと触手を伸ばし続けている。

「その裏切り者を渡してくんねえか、そうしたら見逃してやらんこともない」
「嫌だね。悪魔の言うことなんて塵芥ほども信じられない」

 嫌、の部分を強調して言い捨てると諭吉の目が少しだけ細められたのが分かった。天道がごくりと息を呑む。緊迫した状況下、かすかな物音も聞き逃したくはない。

「ふんふん。様子を見るに、何やら二人は知り合いのようだね?」

 遊は楽しげに目を輝かせながらそう言った。
 彼からの問いかけに僕と諭吉は一度息を止め──一瞬ばかり殺気立った目でお互い見つめ合い──すぐに破顔する。何事も無かったかのように。

「まさか」
「んなこたぁねーよ」

 そうして、答えを言い放つ。

「この人は殺し損ねた怠惰の悪魔さ」
「こいつぁしとめ損ねた偽善大天使さんだ」

 僕らの頭上で白い銀の粉を振り撒く三日月は、朧ろ気な輪郭を保ったまま月光を降り注いでいる。

(間に合え)

 間に合わせるためにも、まずは悪魔をどうにかしよう。
 久方ぶりに、僕は僕以外の血で濡れるのか。……それは存外、悪くは無いのかもしれないな。
 空いた方の指先で魔法陣を描きつつ、僕は楽しげに笑っていた。何百年も戦っていないのだ、気が昂るのも仕方が無いとは思わないか。




2016/12/20
堕天した者と本の虫。



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