五里霧中


 人里から離れた先にある森の奥深くには、泉があった。その泉から湧き出ている水は甘く、喉ごしのいい爽やかな味わいであった。
 この水を飲むと妙に頭が冴え、傷が癒えていく不思議な現象が起こる。しかし何の成分が含まれているのかを調べようとは思えなかった。

 俺は今日も足を運ぶ。その、泉へと。
 日光を受けて輝くそれは、ただの水とは訳が違っていた。それは桃色をしていた。ショッキングピンク――というわけではなく、ほんのりと透き通る色素の薄い桃色をしていた。
 そんな泉から顔を覗かせるのは、泉と同じ色の体毛を持つ大きな目の少女。お洒落を気取っているのか、両耳にキャンディの形をした耳飾りを着けている。
 彼女は少し、他の奴等とは勝手が違う体だった。例えるなら人魚、と言うべきか。彼女の下半身には足が生える代わりに、魚のそれが生えていたのだった。
 彼女は俺の姿を視認するや否や、にこりと微笑んで岸へと近づいてくる。

「今日も来てくれたのね」

 彼女は水に触れていないと、命に関わる発作が起きた。それもただの水では駄目だった。この泉から湧く特殊なものでないと、彼女の身の安全は保証できなかったのだ。
 彼女は焦がれていた。外の世界に行きたくて仕方がないと、時折本音をこぼしていた。けれど此処を訪ねてくれる人もいるから「今はいい」のだと、見栄を張っていた。嘘をついていた。
 そんな彼女を見ているのが、俺はたまらなく辛かった。

「今はいいの。だって王子様が、私をここから連れ出してくれるんだから!」

 彼女がいつも話す、架空の「救世主」の物語。俺はもう何度も何度も、耳にタコができるほど聞いた。
 彼女が語る王子様。優しく強く、暖かい情に溢れた男らしい。目を生き生きと輝かせて詳細を語ってくれる。俺はその言葉全てを復唱してしまえるほどに、幾度も聞いた。

 そう、幾度も聞いたんだ。同じ場所、同じ日付、同じタイミングで同じことを俺はもう幾度も聞いたんだ。

 彼女はまだ気づいていないのだろう。俺を含むこの世界の住人がみんな、何ら変わらない「決められた」人生を歩んでいるのだということに。
 彼女はまだ気づいていないのだろう。俺がいろんな方法を試しても、彼女を救う結末にたどり着けなかったことを。
 いや、気づかなくていい。知ってほしくない。後一日で彼女が生命線である水に殺されてしまうだなんて運命になど、気づかなくていいんだ。

 後何回繰り返すのだろう。後何度、溺れていく彼女を見届けなくてはならないのだろう。
 王子様なんていないと、言ってしまえたらどれほど楽になれるだろう。
 ずっと彼女を見てきた。体に芽生える得体の知れない気味の悪い瞳すら、ずっと彼女を映していた。本当に初めて出会った時のことはもう思い出せないけれど、あの時から俺と彼女の終わらない輪廻は、確かに繋がってしまったんだ。

 彼女はいつ気づくだろう。気づいたら、絶望してしまうだろうか。
 それ以前に俺はあの過去の一つのように、この堂々巡りの現実を忘れてしまうのだろうか。そして今のように、思い出して悪あがきを続けるのだろうか。

 どうして俺じゃあ、彼女を助けられないのだろう。

 楽しげに話す彼女を見ていると、胸が苦しくてたまらないんだ。




2014/04/22
獣魚と貴族。



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